■ 胡蝶の夢 / KACHO  暗い。   何かが決定的に欠けているような暗闇。  「…うまくやりやがったな」  何もなく、あるのは闇そのものだけの空間。  「…俺が死んで、お前はチカラを取り戻したろう」  寒い、苦しい。  「…せいぜい生きてみるんだな」  なのに。  「…どうせお前は、」  どうして俺は、  「…幸せになんかなれないさ」  幸せな気持ちなんだろう…?  …そして俺は目覚めた。  時計の音が聞こえる。正確な秒を刻むカチリカチリという音。  ここは…俺の部屋だ。  殺風景な、俺の部屋だ。  「…」  悪い夢を見ていたようだ。一人きりで暗闇に放り出されて、誰かが俺を蔑み続けるなんて、突拍子もない夢。  俺は額の汗を拭った。  体は鉛のように重いが、動けない程じゃない。ゆっくりと上半身を起こしてみて、案外以前より楽に動けることに驚いた。  そして思い出す。シキの死を。秋葉にイノチを返した、あの日を。−−−俺の死を。  俺は死ぬはずだった。  だが、生きている。  体は重く、節々が鈍く痛むものの、それでも俺はまだ生きている。それはシキが死んだからか。シキのイノチが尽きたから。俺は奪われたイノチを取り戻すことができたのだろう。  そうだ、秋葉。秋葉は無事だろうか。  秋葉は一命を取り留めた、はずだ。以前は強くあった共存の感覚が、今はない。今は秋葉を感じない。俺の中の秋葉の半分は、本来の秋葉に戻ったのだから。  秋葉が無事ならそれでいい。俺に秋葉の前に立つ資格などない。ずっと守られていたのは、実は俺の方だったのだ。  これじゃシキと変わらない。  とんとんと、聞き慣れたノックの音がした。 「志貴さま…?」  ドアから現れた少女は、ベッドの上に起き上がった俺を一目視た。そして、俺が見たこともないような不思議な顔をする。 …どうやら、激しく動揺している、−−−らしい。 「志貴さまが…お目覚めに…」  少女は熱にうなされたようにそう呟いた。そして、持っていた銀のトレイを落しそうになりながら、パタパタと慌てて部屋から出て行く。 「翡翠?おーい…」  力無く呼んでみる。もちろん返答はない。  何だっていうんだ。  そりゃぁ俺は今まで何度も倒れてきたけど、でもそんなに取り乱す程じゃないだろうに。  …眠い。  やはりまだ眠い。どうせ体は満足に動かない。きっと落ち着くまではこのまま寝ていた方がいいんだろう。  俺は目蓋を閉じて睡眠に備えた。 「兄さん!」  唐突な声で心地よい落睡から叩き起こされた。ノックもなしに駆け込んできたのは秋葉。なんだ、さっきからなんだかバタバタと騒がしいなと思ったら。 「…なんだよ、秋葉。家の中では走るなって親父に言われなかったっけ?」 「もう、今はそんな時じゃないでしょう!」  突然叱り飛ばされて、俺は目を白黒した。それではっきり目が醒めた。  なんで俺は怒られてるんだ?…何か悪いことでもしたか? 「…でもよかった、目が覚めて…」  そうかと思うと、今度は秋葉は泣きそうな顔をする。なんでそんな顔をするんだ。俺が死んだわけでもないのに。  俺が、死んだ…?  そうだ、俺は死んだ筈だった。どれくらい?あれから一体どれだけ経ったんだ? 「兄さんは一ヵ月も眠っていたんですよ」  俺のベッドに腰かけて、秋葉は呟くようにそう言った。…一ヵ月?そんなに眠っていたのか?俺はまた秋葉に、琥珀さんや翡翠に迷惑をかけてしまったのか?  胸の古傷が、ずきりと痛んだ。 「…もう、いつまでたってもねぼすけなんですね、兄さんは」  そんな軽口を叩くものの、秋葉はどこか優しい顔をしていた。  血は継っていないとはいえ、形の上では「身内」だ。そうやって気にかけてもらえることが、今の俺には嬉しかった。  こんなことに、俺は憧れていたのかもしれない。  俺の寝室に、秋葉が居る。俺を心配してくれて、今は俺のベッドに腰かけ、柔らかな微笑みを浮かべて俺を見ている。  …なんか、いい雰囲気だ、な。 「志貴さま」 「「うわッ」」  驚いた声が秋葉と二人でハモった。急に呼ばれて心臓がドキドキ言っている。動悸には別の原因があったのかもしれないけど。 「お食事の用意が出来ています。召し上がりますか?」  いつの間に部屋に入って来たのか、翡翠がいつもと変わらぬ様子でそこに立っていた。俺と秋葉は顔を見合わせて苦笑する。 「ああ、今俺は猛烈に腹が減ってる。でも」 「?」 「一ヵ月ぶりの食事だそうだ。おかゆのような優しいものがいいんだけど…」 「わかりました。すぐに用意致します」  翡翠は、今度は音もなく部屋を出て行く。さっきの騒がしさが嘘のように。 「…翡翠もすっかり元通りね」  秋葉が悪戯っぽい顔で意味深なことを言う。 「元通りって何が。翡翠はずっとああだろ?」 「判ってないわね、兄さん。兄さんが倒れてからこっち、翡翠の心配ぶりったらなかったんだから。ふふ、見せたかったわ」  翡翠が、俺を心配してくれてた?それは…なんだか…見てみたかったような…。 「ちょっと兄さん。何よデレっとしちゃって」  俺の緩んだ気持ちを察してか、秋葉の機嫌が急に悪くなる。でもすぐに穏やかな顔に戻って、腰かけていたベッドから立ち上がった。 「まぁいいわ。その調子なら大丈夫なようね。後で琥珀に簡単に診察してもらいましょう。それまでは大人しく寝てて下さいね」  もとより起き上がる気はない。だというのに『大人しく』のあたりには何か力が籠っているような気がした。…今まで散々警告を無視してきたから、無理もない。  秋葉は部屋を出る前に一度振り返って、 「明日は一緒に朝食を頂ければいいですね」 なんて回復を強制するような注文を付けてドアを閉めた。…台風のような奴だ。  しばらく横になっていると、再び聞き慣れたノックが二回。 「どうぞ」  声と同時に、小さな土鍋を銀のトレイに乗せた翡翠がドアを開いた。…トレイに土鍋というミスマッチが微笑ましい。 「お粥をお持ちしました。寒いですから熱めにしてあります」  そう言われて気付いた。確かに寒い。気が付くと、屋敷の中だというのに吐く息が白い。秋にしては底冷えが酷いな、とそんなことを考えた。  そうか、俺は一ヶ月以上寝てたんだから、季節はもう冬なんだ。  ベッドに半身を起こし、手渡された暖かな鍋と白いレンゲを持って、初めて俺は生きていることを実感した。 「じゃぁ、遠慮なく頂くよ」  挨拶もそこそこに、俺は粥を口に運ぶ。粥に味などない筈なのに、わずかな塩味が絶妙で、俺は無言でそれを口に運んだ。  翡翠はベッド脇に黙って立ち尽くし、そんな俺をじっと見ている。  …なにか間が悪い。  何か話をしなければ、翡翠はともかく俺が我慢できそうにない。でも起きたばかりの俺に話題などあろうはずもない。  目の前のモノでなんとか話を作ってみた。 「えーと、翡翠に土鍋ってなんだか似合わないよな」  何気ない言葉だ。だのに、翡翠がぴくりと反応した。…あれ? 「…美味しく、ありませんでしたか?」  消え入りそうな声でそんなことを言う。メイド服の前で組み合わせた指を交互に組み替えている。  そういえば翡翠は食事を『用意致します』っと言ったっけ?『用意させます』じゃなくて? …はたと気付いた。 「いや、美味かった!ホント美味かったよすごく!ただ、トレイに土鍋よりはお盆の方が合うかな−って、そう言いたかっただけなんだ」  俺の不自然なフォロ−に、それでも翡翠はほっとして胸を撫で降ろしたようだ。 「では、食事が終りましたらお呼び下さい」  すぐにいつもの調子に戻って、部屋を出ようとする。 「あ、ちょっとまった、翡翠」 「?なんでしょう、志貴さま」  翡翠はドアの前でぴたりと静止して、体をこちらに向けた。 「その、…ありがとな、翡翠のお粥、ホントに美味しいよ」  一瞬、翡翠の顔からボッという音が聞こえたのかと思った。表情はいつものままだが、頬が真っ赤に染まったのを見逃す程、俺は間抜けじゃない。  ドアが閉まってしばらくしても、俺はしばらく翡翠の赤い顔を想像してほくそえんだ。 --------------------------------------------------------------------------------  朝だ。  AM6:30。一ヵ月も寝ていたおかげで、この上なく目覚めがいい。  もしかしてもうこんな気持ちのいい目覚めはもう一生ないんじゃないかと思うくらいだ。俺はベッドを離れて窓際から良く晴れた青空を眺めながら、翡翠が俺の姿を見て驚いてくれないかとかそんなことを考えていた。 「志貴さま」  例のノックの後、翡翠が現れた。これ以上はないという不自然な満面の笑顔で迎えてみる。 「やはは、おはよう翡翠」 「おはようございます、志貴さま」  翡翠は一礼していつも通りに無表情に答えた。…つまらない。もう少し驚いてくれてもいいのに。昨日の赤面が嘘のようだ。 「一ヵ月ぶりの朝は気持ちいいなぁ−ははは」  芝居っ気たっぷりに冷たい朝の空気を深呼吸してみる。翡翠はというと、ドアの側に立って俺を黙って見つめるだけだ。…やっぱりつまらない。 「お食事の準備が出来ております。食堂の方へおいで下さい」  着替えを置いた翡翠はいつも通りの台詞を述べて、部屋から出て行く。 …翡翠に人並の反応を求めたのが間違っていたか。 「…志貴さま」  ふと、翡翠が振り返った。無表情だが真摯な瞳で俺を見つめる。 「なに?」 「またお側にお仕えすることができて、翡翠は嬉しく思います」  そうして一礼して部屋を出て行く。  これは…参った。 今のは反則だ。出会いがしらに足を払われたような、そんな反則だ。あんなことを言われたら俺は…返答に困ってしまうじゃないか。  居間に入ると、そこには懐かしい光景が広がっていた。  ソファーに腰かけて優雅に紅茶を飲んでいる秋葉。その隣に座って秋葉との会話を楽しんでいる琥珀さん。壁際に彫像のように立ち尽くして身じろぎ一つしない翡翠。  俺は…帰ってきた。遠野の家に。以前の居辛かった親父の居る遠野ではなく、四人で毎日楽しく暮らしていける、今の遠野に。 「おはよう、みんな!」  いつになく元気に、俺は居間の全員に挨拶した。  …失敗した。もう少し大人しくしておくべきだったか。秋葉はあからさまにいぶかしげな視線を向けてくるし、翡翠もなんだか目が冷たい。 「あら、志貴さん、お体はもうよろしいのですか?」  なんて、いつも通りの笑顔でいつも通りに話かけてくれるのは琥珀さんだけ。 「待ってて下さいね、すぐに朝食の支度をしますから」  ぱたぱたと厨房に消えて行く。一ヶ月ぶりだというのに、そこには変わらぬ朝の営みがあった。 「久しぶりの朝食だというのに、今日はまたご機嫌ですね」  秋葉がなにやら刺のある言葉で俺を威嚇(?)する。これもいつも通りだ。 「早起きして何かいいことでもありましたか?」  遅く起きたら遅いで不機嫌なくせに、早く起きてもこれか。今まで俺はホントによく我慢してたな、と感心する。 「朝飯はいつも楽しく頂くもんだろう?」 「だったら明日からも毎日早く起きて下さいね。幸い冬休みで学校はありませんけど」  口では秋葉に叶わない。話題を変えることにしよう。  …ええと。 「そうだ、秋葉。あれから調子はどうだ?もう体は落ち着いたのか?」  瞬間、ふらりと秋葉の髪が赤く染まったような気がした。表情も硬い。俺は禁忌に触れたのか?  …いや、目の錯覚だ。瞬きして良く見ても、秋葉の髪は黒く緑なすままだし、表情も穏やかで動揺など微塵も感じさせない。 「私より兄さんの方が心配です」  はっきり明言されてしまった。それもそうか。一ヶ月も寝込んでいた者に心配などされたくもないだろう。 「志貴さん、準備ができました」  食堂から救いの声が聞こえる。この場は逃げるが勝ちと判断して、俺は食堂へ向かった。 「はいどうぞ、柔らかめのものにしておきましたから」  琥珀さんはやっぱり笑顔で俺を向かえてくれた。テーブルの上には消化の良いものを集めたような食事が並んでいる。気くばりも万全、か。 「ありがとう、琥珀さん。いつも悪いね」 「なに言ってるんですか。これが私の仕事です」  仕事、か。こうやって俺と会話することも仕事の一部なのかと思うとなんだか寂しい気もするが、とりあえずは空腹を満たすことにしよう。  テーブルに腰かけた俺に、琥珀さんは紅茶を注いでくれる。その手を見て気付いた。 「あれ?琥珀さん、少し痩せた?」  言ってからしまったと思った。俺は年頃の女性になんて失礼なことを聞いてるんだ。 「ええ、ダイエットしてるんですよ」  全く臆せず答えてくれる琥珀さんの笑顔が俺を救ってくれる。…もう少し調子に乗ってみてもいいみたいだ。 「ダイエットって、琥珀さん別に太ってないじゃない」 「いえ、ここのところ寒いからあまり動いてなくて。それでちょっと気にしてるんです」  俺は『ふうん』と曖昧な返事をしたが、やっぱり琥珀さんが太っているようには見えず、女性の気持ちは判らん、とかそんなところで納得することにした。  一ヵ月ぶりの食事だったが、琥珀さんの気配りが効いたのか、俺はテーブルの上の全てを残さず平らげた。  そして、自分の体の調子の良さにちょっと呆れた。  食事の後、全員が居間に揃って他愛もない話に花を咲かせていると、琥珀さんが両手を胸の前で合わせ、うれしそうに言い出した。 「パーティ、しましょう」 「「はぁ?」」  全員の怪訝げな声が一つになる。 「志貴さん回復のお祝いですよ。調子も良いようですし、今晩あたりどうかと」  秋葉は少し考えるように腕を組んで俺の方を見る。いや、俺を見られても。 「そうね、たまにはそういうのもいいでしょう。翡翠はどう?」 「私も参加できるのでしたら、喜んで」 「兄さんは大丈夫?冬眠から醒めた直後は辛くない?」  冬眠から醒めるのは春だろ、と言いそうになって、やめた。口で秋葉勝とうなどと思う程俺は愚かじゃない。 「いいよ、せっかくの申し出だし、参加させてくれ」  琥珀さんは笑顔でにこにこしている。そういえば前にもこんなことがあったけど、きっとこういうイベントが大好きなんだろうな。  そうだ。前にも。こんな。イベントが。あった。 「ああ、でも一つだけ条件がある」 「?」 「今回はアルコールは無しだ。飲んだら翡翠なんて話できなくなるじゃないか」  翡翠は僅かに頬を染めたように見える。琥珀さんは相変わらず微笑んでいるが、 …秋葉はあからさまに不満そうだ。 「アルコール無し?そんなのパーティじゃありません」 なんてことを宣う。まぁこいつの酒豪ぶりは良く知ってるが、兄や付き人まで巻き込むのは止めて欲しい。かといって、秋葉がご機嫌斜めのままでは楽しい時を過ごせそうにない。 「判った判った。シャンパンだけO.K.にしよう。それならパーティらしいだろ?」  秋葉はそれでも不満そうにしていたが、何か思い付いたのか唐突に不敵な笑みを浮かべて頷いた。 「判りました。今回の主役は兄さんですものね。シャンパンだけにしましょう」  …何か企んでいる。ピーンと来るものがあるが、具体的に何を企んでいるのか判らない以上、追求しようがない。 「じゃあ決まりです。これから翡翠ちゃんと二人で準備しますので、お二人はしばらくお部屋でお待ち下さい。準備が出来次第お知らせします」  琥珀さんの言葉でその場はお開きになった。とりあえず秋葉と俺は自分の部屋に戻って、時間が来るのを待つことになったのだが。 --------------------------------------------------------------------------------  −−−退屈だ。  何もやることがないというのはなんて退屈なんだろう。きっとパ−ティは夕方からになるだろうから、あと三時間は待機が続くわけだ。人並の趣味などない俺にはこの時間は拷問に近い。  だめだ、耐えられない。何かをしたいが、何をしたらいいものやら。  翡翠と共働で掃除洗濯に勤しむ姿を想像してみるが、…なんだか無言のプレッシャーを受けそうで恐い。  結局、厨房で琥珀さんを手伝うことにした。また海老の殻剥きくらいなら手伝えるだろう。 「琥珀さ−ん」  厨房に入ってすぐ、テ−ブルの上に剥き海老の大群を発見した。 …もしかして俺って既に用無し? 「あ、志貴さん。どうしたんですか?まだパ−ティには早いですよ」  琥珀さんのその笑顔が痛い。 「ええとその、暇だから、何か手伝おうと思って来たんだけど…」  じゃぁ海老の殻剥きをお願いします、とは決して言われないんだろうな、と思いながら、それでも仕事をもらおうと俺はバツが悪そうにそう言ってみた。  きっと今の俺は『かまってもらいたい仔犬』のような顔をしているに違いない。 「ちょうどよかった、手伝って頂きたいことがあるんですよ」  意に反して、琥珀さんはエプロンで手を拭きながらそんなことを言った。ええもう人参の微塵切りだろうが大根の桂剥きだろうが何でもやりますよ。 「銀杏と胡桃の殻割りをお願いできますか?」  …いずれにしても俺は殻とか皮とかそういうものとは縁が切れないようだ。  前に一度やったことがあるが、銀杏も胡桃もその殻を剥くのは結構な重労働だ。とはいえ、コツを掴むと面白いように割れるので、何も考えずに楽しむとすればこんなにいい作業もない。 「へぇぇ、上手いもんですねぇ」  琥珀さんは感心したように俺の手元を見て言う。三十分が経過して、机の上には俺が割った殻と琥珀さんが割った殻が二つの山になっているが、どうひいき目に見てもその差は倍以上ある。…なんだか勝ったような気分だ。 「前の家で鍛えられんだ。おばさんが辛いからってやりたがらなかったから」 「やっぱりこういうのは男の子の方が向いてるのかしら」  少し拗ねたような口調でそう言われる。急に自分が悪者になったような感じだ。 「あ、そりゃそうですよね、男の子の方が力がありますものね」  琥珀さんは慌ててフォローを入れて、あはは、と笑った。そてにしても男の『子』はないだろう、男の『子』は。 「翡翠にはまだちょっと無理かな」  少し優しい口調で、琥珀さんはそんなことを口にした。…『まだ』?そういえば昨日お粥を作ってくれたのは…。 「最近、翡翠も厨房に立つようになったの?」  何気なく聞いただけなのに、琥珀さんは酷くびっくりした様子で俺に目をやる。 「あれ、私そんなこと言いましたっけ?」 「いや、言ってないけど。ただそうなのかなって思って」  琥珀さんは大袈裟な動作でぐるりと辺りを見回してから、少し声のトーンを落した。 「それがですね、ちょうど一ヶ月くらい前から、翡翠ちゃんったら突然お料理を始めたいって言い始めたんですよ」  一ヶ月前と言えば俺が倒れた頃のことだ。 「それで?」 「最初はそりゃぁ酷かったんです。ジャガイモの皮剥きとかやったらジャガイモが残らないくらいに」  …目に見えるようだ。 「でも、才能はあったんでしょうね、しばらくしたらびっくりするくらい上手になりました。今じゃお魚を三枚におろすのだって御茶の子サイサイなんです。まだまだ荒削りですけど、でももう少しすればきっとすごい料理上手になりますよ」  そう言って琥珀さんは笑った。そうか。翡翠もがんばってるんだな。  唐突に琥珀さんは悪戯っぽい視線を俺に向ける。 「一体なんで急に料理なんて思ったんでしょうねぇ」  ずっと寝ていたんだし、俺には理由なんて見当もつかない。 「さぁ。やっぱり向学心じゃないかな」 「またまた、志貴さんったら鈍いんですから。昨日のお粥、おいしかったですか?」  今度は急に話題を変えてくる。 「あれ、知ってたの?」 「知ってるも何も、昨晩翡翠ちゃん、すごく神妙な顔で厨房に入ってきて『お粥を作ります』なんて言うもんだから、私目が点になっちゃいましたよ」  …やっぱりその場景が目に見えるようだ。行動原理は謎なのに、どうして翡翠の行動は容易に想像できてしまうんだろう。大体、一体なんでそんなことを…。 「…もしかして、俺のため?」  かなり自分本位で飛躍した想像を述べてみた。琥珀さんは悪戯っぽさいっぱいの微笑みを崩さない。 「ええ、それはもう。翡翠ちゃんったら使用人の枠を越えそうなくらい志貴さんのことを考えてるんですから」  うわ。それは…かなり嬉しい。あの不愛想で料理下手な翡翠が、そこまで根を詰めて俺を世話してくれるのは…正直とても嬉しい。 「ふふふ、顔赤いですよ、志貴さん」  そう言われて少し紅潮している自分に気付いた。  何か、別の話題だ。  照れ隠しするにしても、時間が必要だ。話題を変えれば時間もできる。 「琥珀さんはどうなの?」  我ながらなんていい話題なんだ、と思った。不自然さがなく、さりげなく対象を逸らすことができそうだ。 「私ですか?私お料理は苦手じゃありませんよ?」 「そうじゃなくて、料理以外。翡翠が苦手分野に挑んでるっていうのに、琥珀さんは掃除洗濯には挑戦しないの?」  明らかな狼狽ぶりが楽しい。 「えと、私は、その、失敗すると被害が、ええと大きいんです。料理だと失敗しても始末するのは簡単ですけど、あの、掃除だと壊しちゃったりすると大変ですから、はい」  言い分はもっともだが、でもそれじゃ足りないよ、琥珀さん。 「でもこのままじゃ翡翠に負けちゃうよ?」  今度は俺がたたみかける。 「ええと、ええと、あの、そう、く、胡桃のアク抜きに水が要りますよね。用意しますから」  琥珀さんは椅子から立ち上がって逃げ出した。俺への追求はいつのまにやら琥珀さんへのそれに変わり、俺は窮地を脱したようだ。ほっと胸を撫で下ろす。  と。 「あ…れ…?」  何か力の抜けるような声が聞こえ、俺の視界から急に琥珀さんが消えた。 「琥珀さん?」  椅子から立ち上がると、床に座り込んでしまった琥珀さんが見えた。顔は笑顔だが、どこか心許ない。 「どうかした?どこか調子悪いの?」  琥珀さんはふるふると頭を横に振ってそれを否定し、すぐさま立ち上がろうとする。 …が、どうにも力が入らないようだ。 「あ、いえ、ただの立ち眩みですから、すぐに収まります」  とは言うものの、そのままにしておくわけにはいかず、俺は椅子から立って手を差し出した。 「…あはは、恥ずかしいとこ見られちゃいましたね」  俺の手を取ってゆっくり起き上がった琥珀さんは、そう言ってバツが悪そうに照れ笑いをした。心なしか顔色が良くない。 「座って。なんか調子悪そうだ」  椅子に無理矢理座らせて、それでようやく琥珀さんも落ち着いたようだ。 「最近時々あるんです。なんだか疲れてるみたいで」 「俺の次は琥珀さんか。ここって目眩とかによくよく縁のある家なんだなぁ」  仕方なく俺がボールに水を張ってテーブルに置く作業を代行する。 「ダイエットのせいかもしれないよ。無理しちゃ駄目だって」  椅子に戻りながらそんなことを言った。 「…優しいんですね、志貴さん」  さっき倒れそうになったのも芝居だったかのように、琥珀さんはうっとりとした視線でテーブルの上のボールを見つめた。 「ま…まぁ、女の子には優しくしろって叔父さんにいつも言われてたから」  俺は鼻の頭を掻きながらそんなことを答えた。  二人とも胡桃を割る手が止まっていた。なんとなくお互いの顔を見つめてしまう。 …まずいぞ。急に雰囲気が変わったような気がする。このままだとなにかイケナイことを考えてしまいそうな…。 「姉さん、何か手伝うことある?」  そこで翡翠が入ってこなければ、そのままずっと作業は中断したままだったかもしれない。俺たちは、慌てて視線を逸らしたのだった。 -------------------------------------------------------------------------------- 「さて、皆さんグラスは持ちましたか?」  さっき倒れたのもどこ吹く風、琥珀さんは居間の真ん中に立って笑顔で司会進行を執り行っている。  机の上にはずらりと並んだ料理、料理、料理。絶対四人じゃ食べ尽くせないと思うんだが、翡翠も加わって色々作った結果、こんな量になってしまった。 …途中はなんだか姉妹料理対決のようになってたような気がするんだけど。 「シャンパンだけとはちょっと寂しいけど、まぁ約束ですしね」  秋葉は心底残念そうに手近なシャンパングラスを手に取った。既に液体が並々と注がれている。シャンパンってあんなに並々注ぐもんだっけ?とか思ってはいけないらしい。  翡翠は適量を注いだグラスを持っている。でもその目が『私、飲みます』と覚悟を決めているように見えて、かなり不安だ。 「それでは、志貴さんの快気を祝って、乾杯!」  高級そうなグラスを合わせて、かちんというこれまた高級そうな音を立てる。  秋葉はそれをぐいっと一気に空けて早くも二杯目に突入する。琥珀さんはいつも通りマイペースなので心配なさそうだが、翡翠はチビチビやっているように見えていつ倒れてしまうか判らないので、見ている方としては気が気じゃない。  …と思っていたら、その翡翠がすいと俺に向かってきた。 「志貴さま。どうぞ」  既にほの紅い顔だが、まだ前後不覚というわけではないようだ。とりあえずお酌くらいはできるらしい。 「ああ、ありがとう、頂くよ」  曖昧に返事をして翡翠にシャンパンを注いでもらう。身長差が大きいから向こうは少し背伸しないと俺のグラスに注げないようだ。そんな懸命な姿がまた嗜虐心をそそるというか…。 「私、今日は志貴さまのお酌に専念します」  唐突に翡翠はとんでもないことを口走った。いや、そりゃ嬉しくなくはないが、俺自身が下戸だからそんなに注がれても困ってしまう。 「いえ、もう決めましたから。今日は一日お側にお仕えします」  …やっぱりもう酔ってるんだろうか。許可も拒絶もしてないのに、今日の翡翠は俺専属決定のようだ。  秋葉と琥珀さんは二人でなにやら下らない話に楽しく花を咲かせているようだし、きっと前のようにこのままうやむやのまま終っちゃうんだろうなぁ、とかそんなことを考えた。  …あれ?  なんとなく秋葉のシャンパンの色が少し濃いような気がする。あと足元になにやら見たことのあるようなシャンパンじゃない瓶がいくつか転がっているような気も。ついでにテーブルの上にはこれみよがしに置かれた炭酸水のペットボトル、周囲には鼻につく強いアルコール臭。 「秋葉?もしかして、なんかそれ間違ったシャンパンじゃないか?」 「間違いってなんですか兄さん。これはれっきとしたシャンパンですよ?」 「…シャンパンの定義言ってみろよ」 「ブランデーの炭酸水割り、でしょ?」  …もう突っこむ気にもなれない。酒豪は俺の範疇ではないらしい。  大人しく翡翠が勧めてくれる分だけでもちびちび飲んでいよう…。  琥珀さんが『ゲームしましょう』とか言い始めたおかげで、テーブルを囲んだ四人の手の内にはトランプが13枚ずつ。翡翠が難しいトランプのルールを知らないと言うので、シンプルかつ奥が深いということババ抜きが始まったのだ。  そして既に十ゲーム目。  俺は見切っていた。  秋葉はあからさまに顔に出る。ババを手に取った時や、俺がババを引きそうになった時の反応が楽しくて、何度も入れ換え差し替え札を持ち替えて楽しんだ。最後には怒って「一度手を付けたものは取って下さい!」と闇鍋ルールのようなことを言われてしまったくらいだ。  翡翠もポーカーフェイスなようで実は案外表情があることが判った。ほんの僅か、ぴくりと眉が動くかどうかというくらいの小さな変化だが、それさえ見逃さなければ全く俺の敵ではない。  問題は琥珀さんだ。表情が豊かなようだが、実は笑顔のまま全く変化がない。その上、札に関係なく微妙に表情を変えるなどという高等テクニックを会得しているようだ。当面の敵は琥珀さん、だな。  そんなわけで、今の勝敗は、俺三勝、琥珀さん四勝、翡翠二勝、秋葉一勝というところ。秋葉が一勝できたのは何かの間違いだと思う。 「ちょっと翡翠!ちゃんとババ引いてよ!」  …無茶を言う。 「いくら秋葉さまのお願いでもこればかりは聞けません」  翡翠も流し方を知っている。 「ねぇ翡翠ちゃん、どれが私の欲しい札なの?」 「姉さんの持ち札を知らないから判りません」 「秋葉ってホント顔に出るのな」 「キィッ!兄さん今のずるい!」  …こういうのを心理戦と言う、のだろうか…?  二十戦で、結果は琥珀さんの辛勝。俺は一歩及ばなかった。ちなみにビリは当然秋葉だ。 「今のは納得できません!もう一度お願いします!」  最下位がよっぽどくやしかったらしい。本気で憤慨しているようだ。なんでも優秀なお嬢さまとしては引くに引けないんだろう。 「やめとけやめとけ。今のお前じゃ何度やっても勝てないぞ」 「いいえ、そんなことはありません!私、何かを習得しましたから!」 「へぇ?何だ?」 「え?それはその…」  …秋葉が小技を使えるようになるのは暫く先の話なんだろうな。 「志貴さま、どうぞ」  翡翠が俺に五杯目のシャンパンを注いでくれる。  …おかしいな。この程度のシャンパンで俺は少し酔ってしまったようだ。有彦と飲んだ時でも、こんなにくらくらする事は少なかった筈なんだが…。  なんだか嫌な予感がした。注意深くグラスを見る。…なんか色が濃いような…。 「翡翠?」 「はい、志貴さま」 「これ、シャンパンだよね」 「はい、そうです」 「ブランデーとか入ってない?」 「はい、秋葉さまに教えて頂いた通り作ってますから。ちゃんと志貴さまのお好みに合わせて、ブランデー濃度を少しずつ増やしています」  大真面目な翡翠の後ろで、秋葉がブイサインを出している。  俺は泣きそうになった。 --------------------------------------------------------------------------------  さすがに、酔った。  秋葉の入れ知恵も原因の一つだが、翡翠のちょっと据わった視線が痛くて酌を断り切れなかったのが主因だ。  今は全員がソファーに座り、テーブルを囲んで下らない話で盛りあがっているというところ。秋葉は最初の約束など何処吹く風、すっかりブランデーをロックでなどという親父臭い飲み方に変わっている。琥珀さんは途中から日本酒になったようだ。一升瓶が床に転がっているのがかなり恐いが、見た目はほとんど変わらないので大丈夫なんだろう、きっと。翡翠も(多分)シャンパンをちびちびやっているだけなので、以前程の醜態は晒していないようだ。  やれやれといったところか。  でも、と思う。  楽しい。  他愛のないヨタ話に花を咲かせ、へべれけな会話でさらに笑いを誘う。物心付く前に家を放り出された俺には家族という概念が乏しいために、こんなささやかなことが何より楽しい。  歓迎会の時にも思ったが、こういう宴も悪くない。みんなの普段見れない姿が見れたりするあたり、日本人というのはこういう席でお互いを理解するのが伝統なんだろう。  …俺は父性的な顔をしていたのかもしれない。つと会話が途切れたテーブルは、それでも暖かな雰囲気に包まれていた。  そんな中、琥珀さんが唐突に言い出した。 「それでは」  全員の視線が集中する。 「本日のメインイベントッ!いきまーす!」 「「メインイベントぉ?」」  秋葉と俺は顔を見合わせる。そんな話があるなんて聞いてないし、思ってもみなかった。 「あ、これは私と翡翠ちゃんとで考えたことなんです。お二人は二階のテラスで待ってて下さいね」  二階のテラス?メインイベントやらはこの寒空の下で行うものなのか?  でも琥珀さんと翡翠とが考えたイベント、か。…是非見てみたいな。 「そんなの嫌よ、外は寒いじゃない!」  秋葉は明らかに不服そうだ。折角の二人の好意を素直に受け取れるように、ここは一つ兄貴らしく諌めてみよう。 「秋葉は来なくていいよ。これは俺のためのイベントなんだから」  そう言えば秋葉は来ないなんて駄々を捏ねることはない。ちゃんと判ってるんだ。 「兄さん…ずるいです」  途端に秋葉の言葉が弱くなる。よしよし。 「じゃぁ、テラスで待ってて下さいね。翡翠ちゃん、準備しましょう」  二人はそそくさと居間から出て行った。  出がけに、琥珀さんはこちらを振り向いてにこりと微笑んだ。 「いいもの、御覧にいれますよ」  俺と秋葉は二人で顔を見合わせて、肩をすくめた。主従関係から言えば従者に弄ばれる主人というところだが、二人ともこんなのも悪くない、とか、そんなことを考えていた。  秋葉と二人、ガウンを羽織ってテラスに出た。  寒い。  時間はPM11:00を回ったところ。このあたりは盆地のため、 12月の夜の気温は低い。雪が降ってもおかしくない程、身を切るような冷たさだ。 「寒…」  秋葉はガウンの前をしっかり閉めて、それでも寒いのか両肩を手で抱くようにして震えている。俺は念のため持って来た毛糸のカーディガンで、後ろからその肩を優しく覆った。  秋葉は驚いたように俺を見上げたが、すぐに視線を逸らす。 「…兄さん…、ありがと…」  横顔が少し赤く見えたのは、酔っていたからだけじゃないだろう。  既に屋敷の消灯時間は過ぎているため、庭には全く照明がない。屋敷は街中から離れた高台の上にあって余計な光が入らないので、ここは夜空を見上げるのに絶好のポイントだった。  空は霧のような薄雲に覆われ、星は殆ど見えない。そのかわり、頭上には空を覆うように大きく、朧ろげに外形を滲ませる白銀の満月。吐く息の白さと相まって、それは夢想的だった。 「きれい…」  秋葉が素直に感想を口にした。俺も同意する。 「うん、きれいだ…」  そうして、しばし二人でテラスに立ち尽くし、朧月を眺める。空気は刺すように冷たいが、それを忘れさせる程、病的な程に美しい風景だった。  突然、庭の照明が点灯した。消えていた全ての照明が一度に点灯したため、辺りは真昼のように明るくなる。目が眩んで、その灯りに慣れるのに少し時間がかかった。 「兄さん、あれ…」  先に目が慣れた秋葉が、庭の中央を指さしている。その先に視線をやると、そこには前に小さなステージを構えた噴水。そのステージの上、右と左に別れて、二人の少女が立っていた。  それは、喩えようもなく幻想的な光景だった。  二人の衣裳はウェディングドレスを思わせる煌びやかな純白。全く同じ装飾なのでどっちが琥珀さんでどっちが翡翠なのか見分けがつかない。否、見分けなど不粋なものは不要だった。  ライトアップされたステージの中央に、二人が静々と歩み寄る。続いて、こちらに向かって深々とお辞儀をした。 そして、歌を、唱い始める。  …なんて、ことだ。  凍える冷気が充満する森の中、冴え凍る朧ろな満月の下で、二人は一心に歌を唱う。それは真藍の空の下、二人の妖精が舞い踊る不思議な情景。  これを胡蝶の夢というのなら、あの二人こそが胡蝶そのものなのだろう。  双子の、同じ音域の同じ声が、別々の音程を奏でながら森の中へと響き渡る。或いは離れ、或いは絡み付きながらささやかなユニゾンを繰り広げる、煽情的で心象的な二つの音。伴奏もなく、基音すらない筈のその二つの音が、俺にはこの上なく美しく感じられた。  俺は、不覚にも落涙していた。  何故かは判らない。ただ涙が流れた。それだけ、素晴らしかった。二人の気持ちが嬉しかった。 「二人とも、嬉しいのよ」  秋葉がぽつりとそう言った。 「兄さんが倒れてからずっと、二人とも寂しそうだったもの」  寂しい、か。遠野に帰ってからたった二週間にも満たない生活の中で、俺がそれだけの存在になり得たことが嬉しい。人が居なくなって寂しい、なんて。そんなことを想われるようになるなんて、夢にも思わなかった。 「…私もね、」  遠慮がちに秋葉は続ける。 「私も、嬉しい。兄さんが帰ってきてくれて、嬉しいんです。ありがとう、兄さん」 「俺も、帰ってこれて嬉しいよ、秋葉」  きっとその時の俺は、素直な顔に戻っていたに違いない。 「礼を言うのは俺の方だ。今まで八年間も、俺を支えてくれてたんだもんな」  秋葉は穏やかに微笑んだ。…秋葉のそんな顔を見たのは何年ぶりだろうか。  そうかと思うと、つとテラスの前の方に歩いて行き、手すりに身を預けて呟く。 「私、恐いんです」 「…何が?」  しばらく沈黙が続いた。 「今までのことと、これからのことがです」  顔を正面に向けたままで、いつになく真剣な表情で続ける。 「私の中にはまだ遠野の血が残っています。今はまだ琥珀に押えてもらってますが、いつ変わってしまうか判らない。それが恐いんです」  そう、それは俺も気になっていた。シキが倒れたとはいえ、結局秋葉は以前と同じように爆弾を抱えたままなのだ。 「大丈夫だ、俺が、必ずお前を守る」  俺はなるべく雄々しさを心がけながらそう言った。秋葉は驚いたように俺の方へ向き直る。その顔が笑顔に変化するのにそう時間はかからなかった。  そうだ、俺が守らなければ。今までは俺が守られていた。今度は俺が秋葉を守る番だ。 「…約束、覚えてますよね」  秋葉が急にそう言った。俺はためらいがちに返答する。 「ああ、覚えてるさ」 「…守って下さいね」  静かな口調だった。でもそこには確固とした意志が感じ取れた。否定など許してはもらえまい。 「…ああ、約束は守る」  俺はなんとかそう言って、唇を噛んだ。言いたくはない。だが、言わなければならなかった。そんな気がしていた。  秋葉は幾分明るい表情に変わり、ほう、と溜め息をついた。落ち着いたようだ。 「あ−あ、なんだか複雑な気分」  何故、とは聞かなかった。答えはすぐに判るから。 「なんだか、琥珀と翡翠に言わせられたみたいで」  俺は苦笑して秋葉の隣へ歩いて行き、同じように手すりに身を預けた。 「そうだな…」  それは、真冬の凍てつく夜のささやかな夢。  二人の小柄で可憐な妖精が起こした、小さな奇蹟だったのかもしれない。  まるで終りを知らないかのように、二人の斉唱は続いている。俺と秋葉は寄り添って、飽きることなくそれを聞いた。寒空の下の筈だが、どこか暖かい、そんな『メインイベント』だった。  俺は今この時を、一生忘れまいと、そう思った。 --------------------------------------------------------------------------------  朝食が終って、俺は部屋に戻った。  窓を開け、外の光を採光する。多分一ヶ月ぶりに、俺の部屋の澱んだ空気が新鮮なそれに押し流され、俺はその爽やかな気体で胸一杯の深呼吸をした。  空には信じられないくらいの藍が広がっている。真冬の碧空。澄んだ大気が陽光を吸収して、そのえも言われぬ色を見せるのだ。  こんな日はどこかに外出でもしたい気分になる。が、朝食時にみんなを誘ったら、琥珀さんに待ったをかけられた。『体が安定するまで外出は厳禁です』なんて言われると、今まで何度も倒れてきた手前グウの根も出ない。  そんなわけで今日も退屈な休日になりそうだ。とりたてて夢中になれる趣味がない俺には、こういう無為な時間を有意義に過ごす術はない。  …ちょうどいい機会だ。これからことについて、少し考えてみよう。  俺はシーツを剥がれたベッドの上にごろりと横になった。翡翠に見られたら叱られるだろうな、とか思いながら、それでも姿勢を正すつもりはない。そうして深い思考の海に沈んでいく。  そうだ。ずっと考えていた。何度も何度も考えた。この忌まわしいチカラを、上手く使う方法を。叶うなら、このチカラを封印する方法を。  先生は『正しく使え』と言った。そもそも正しく使うとはどういうことだろう。俺が正しいと思う使い方でいいんだろうか。この力はどう考えても誰かを不幸にすることしかできない。それでいいのか。それが正しい使い方か。  人の死が見えるのなら。モノの死が見えるのなら。  それを逆に利用できないだろうか。  眼鏡を外して自分自身を見てみる。  昼間だというのに、自分の体に走る「線」ですらはっきりと見える。シキとの確執を断ったことにより、俺のチカラはより強く、より大きくなっていた。  ずきり。  額の奥がうずく。やはり長くは見れないようだ。たとえ自分の体と言えど、それがあまりに脆いものだと知るのは、気分のいいものじゃない。早々に俺は眼鏡を戻そうとした。 「…?」  何か、違和感がある。  なんだろう、これは。それは今まで見て来た「線」とは明らかに違う。  …動いている。 凶々しく輝き、あるいは蠢き、あるいは消え入りそうにとぐろを巻く。  悪意に満ちた、「線」。  呆然とする俺の視界の中で、それは逃げるように体の奥に移動し、俺の視界から消えた。  わからない。ワカラナイ。頭が痛い。頭痛がハげシい。なんだあれ。なンだアレ。ナンだアレ。ナンダアレ。 「…志貴さま?」  気がつくと俺は汗だくだった。  翡翠が俺の顔を覗きこんでいる。  俺は眠ってしまったようだった。 「大丈夫ですか、志貴さま。うなされていたご様子でしたが…」 「ああ、ごめん、大したことじゃないんだ。ちょっと夢見が悪くてね」  バツが悪そうに頭を掻きながら、俺はベッドから起き上がった。シーツの無いベッドにじっとりと汗が浸みて気持ちが悪い。  翡翠はしばらくいぶかしげだったが、俺が立ち上がってからはいつもの調子に戻ったようだ。 「シーツのないベッドに寝るのはお止め下さい。お身体を壊します」  『そして後始末が大変ですから』とでも言いたげな視線が痛い。 「悪かった、寝るつもりは無かったんだ。ただちょっと気持ち良くてね」  俺は両手を挙げて降参のポーズを取る。我ながら犬みたいだな、とかそんなことを考えた。 「…そうですか。気をつけて下さい」  翡翠はまだ疑うような目で俺を見ている。 「そうだ、ここに来たには何か用があるんだろ。何だい?」  矛先を少しだけ逸らしてみる。翡翠ははっと本来の目的を思い出したようだ。 「そうでした。良い天気ですので、マットを干そうかと思いまして」 「そうか、布団干しか。寝る時気持ちいいもんな。是非やってくれ」  それでは失礼します、と一礼して、翡翠は俺の羽毛のベッドマットを手に取った。ベッドマットとはいえ、上等なそれには厚さがあるから重さも結構ある。女の子には辛いかもしれないが、大丈夫だろうか?  案の定、翡翠はうんうんうなってやっとのことでマットをベッドから引きずり下ろした。なんとかそれを持ち上げようとするが、…上手くいくわけがない。マットと翡翠の対比は、まるで大きなビスケットの塊を運ぶ働き蟻のようで、とても見ていられない。 「きゃッ…」  俺は翡翠の後ろから、マットをひょいと抱え上げた。翡翠は勢い余って俺の方に倒れ込む形になる。こちとら腐っても男の子、こんな重い荷物を女性に持たせる程人非じゃない。 「あ、あの、志貴さま?」  翡翠は俺に寄りかかって目をぱちぱちさせているが、俺は構わずマットを背中にしょいこむ。 「いいよ、運ぶくらい自分でやるよ。中庭に持って行けばいいんだろ?」 「いえ、志貴さまにそのようなことをして頂く訳には…!」 「翡翠じゃ無理だって。たまには手伝わせてくれよ」  途端に翡翠の表情が暗くなった。消え入りそうな声で謝罪の言葉を述べる。 「申しわけ、ございません…」 「いいって、これは俺の気まぐれなんだ。翡翠が謝ることはないよ」  そう、これは俺の気まぐれだ。だからそんな悲しげ顔をしないでくれ。 「…では、中庭にお願いします」  少し沈んだ声で、翡翠は俺の先に立った。  とりあえず何が苦労したって、部屋から出る時にドアの隙間からマットを出すのが一苦労だったのだが、それは二人で協力してなんとかできた、ということで。  芝生に覆われた中庭には、立ち木を利用した物干竿が四本。三つには既にぶ厚い羽毛マットがぶら下げられ、柔らかい冬風に棚引いていた。  俺は残った一つに向かって、自分が持って来たマットをよいしょと放り投げた。乱暴にしたつもりはなかったが、マット自体が重かったせいもあって、物干竿はガランガランと鈍い音をたてて少し暴れた。 「志貴さま。…もう少し丁寧にお願いします」  翡翠にたしなめられ、俺は子供のように反省する。  翡翠はどこからか小さな脚立を持ってきて、乱雑に吊されてしわくちゃになった俺のマットを丁寧に伸ばしていく。  天気が、いい。俺はごろんとそのまま芝生に大の字に転がった。そして樹々の枝の先に太陽を見上げながら、目の前に手で陽光を避けるブラインドを作って目を細める。  秋葉が居て、琥珀さんが居て、翡翠が居る。これから四人で、暮らして行けるんだ。今までの非現実を打ち消す程のささやかな現実に、俺は満足だった。  翡翠の方を見る。あれだけ乱暴に掛けられていたマットは、今やしわ一つ残らないようにピンと伸ばされ、冬風に優しく揺れていた。…さすがはお掃除大臣。  ふと、風が吹いた。大した風じゃない。仰向けに地面に転がっている俺の前髪を揺らすだけのものだ。  でも、それで充分だった。  翡翠の。  スカートを。  持ち上げるには。  スローモーションのように見えた。暗い色のメイド服がふわりと宙に舞って、白いハイソックスとタイツが美しく木洩れ日に映える。裏地のフリルがひらひらと蝶のように冷たい大気に翻弄され、その奥には素肌にガーターが眩しい太股と、純白の…。 「あッ…」  翡翠のその声で我に帰った。俺はどうかしていたに違いない。慌ててて視線を逸らそうとするが、もう遅い。逃げる視線が翡翠のそれと合ってしまった。 「…その、御覧に、なりました、か…?」  翡翠はスカートを両手で押え、頬を真っ赤に染めてこっちを睨んでいる。  この場をなんとか切りぬけねば、俺はセクハラ主人の洛印を押されてしまいかねない。 「いいや見てない!ちっとも見てない!白いのがなんか見えたような気がするけど、でもはっきりとは…!」  俺の突発的アクシデントへの対応能力は、思いの外低かったらしい。 「志貴さま…」  翡翠はスカートを押えたまましずしずと脚立を降り、そのまま黙って屋敷の方へ去って行った。  違うんだ!あれは俺のせいじゃなくて冬の風の悪戯なんだ!と一人言い訳してみたが、もちろん聞いてくれる人も理解してくれる人も周囲にはいなかったわけで。  その日一日、翡翠は機嫌が悪かった。 --------------------------------------------------------------------------------  その夜のこと。  夕食とその後の優雅な時間も終って、今はPM11:00。そろそろ寝ようかと思って眼鏡を外した時、ドアが二度ノックされた。 「志貴さん、よろしいですか?」  てっきり翡翠だと思ったのだが、明るい声でドアを開けて入って来たのは琥珀さんの方だった。何かいつもと違う硬い笑みを浮かべながら、俺の方へと近寄って来る。  あれ、と思った。夜ということもあるのかもしれないが、眼鏡を外しているというのに「線」が見えない。代わりに、何か微かな緑色の光が琥珀さんの胸のあたりでちらちらと動いているのが見える。…なんだ?  そんな俺の都合など全く意に介さない様子で、琥珀さんは会話を切り出した。 「聞きましたよ、志貴さん、大胆ですねぇ」  一体何がと聞きそうになったが、心当たりがないわけでもない。 「…中庭の一件の話?」 「そうそう。翡翠ちゃんを襲うなんて、やりますねぇ」  ちょっと待った。そんな恐ろしいことは天地天命に誓ってしてないぞ。 「襲ったなんてそんな。ただの事故だよ」 「事故?ただの?」  琥珀さんは少し真顔に帰って肩を落す。 「だめですよ、志貴さん。そんな言い方じゃ翡翠がかわいそう。あの子、喜んでるんですから」  スカートの中を見られて喜んでいる翡翠の姿なんて、とてもじゃないが想像できない。 「喜んでる?怒ってるんじゃなくて?」 「ええ、そうです。志貴さまとスキ…スキンシップができて、喜んでるんですよ」  異和感。それにスキンシップ?あの時の翡翠はとてもそうは見えなかったけど…。翡翠も女の子、難しい年頃だということかもしれない。 「だからあんまり翡翠に邪険にしないで下さい。お願いします」 「別に邪険にしたつもりはないよ。ただ嫌われてるのかなって、そう思っただけで」 「そんなことはありませんよ。今日はちょっとびっくりしただけです。これからも変わらず何でも翡翠にお申し付け下さいね」  琥珀さんはついと一礼してドアの方へと向かう。  …今日の琥珀さんは何か変だ。なんだか話がたどたどしいし、大体何しに俺の部屋に来たんだ? 「あ、それと、」  ドアを閉める直前に、琥珀さんはもう一言追加した。 「志貴さんは眼鏡を外している方が似合いますね」  ドアがパタンと閉じられる。  俺は呆気に取られて閉じられたドアを見ていた。何だったんだ今のは。言いたいことだけ言って去っていく。今までにないパターンだ。琥珀さんの別の面を見たような気がした。  ふと、頭痛がないことに気がついた。今日は「線」見えないせいか、痛みはない。これだと眼鏡を外していても殆ど異和感なく生活できそうだ。  自分の手を見てみる。ただ見るだけだと本当に「線」は見えない。調子に乗って凝視してみる。  …ずきり。  眉間の奥に鈍痛が走った。  やはり無理に見ようとすると頭が痛む。当面眼鏡を外すことはできないが、琥珀さんにあんなことを言われたら、たまには外してみようか、とかそんなことを考えてしまう。  明日になったらもう少し実験してみよう。そんな安易なことを計画しながら、俺はベッドにもぐりこんだ。  ふと、目が覚めた。  時計はAM2:00。草木も眠る丑三つ刻だ。  何かが、聞こえる。  くぐもった小さな音。…いや、これは声なのか?苦しげな、唸るような、あるいは絞るような低い声。夜の屋敷にこだまする獣の声。  俺はベッドから起き上がった。嫌な予感がした。俺はこの声を知っている。とてもよく知っている、気がする。  部屋から出て、廊下を静かに歩く。声は相変わらず続いている。  階段まで来た時、唐突に声は跡絶えた。 「…」  一階からだということはわかった。だが正確な位置は判らない。しばらく耳をすまして待ってみるが、どれだけ経っても辺りを支配するのは静寂ばかりだ。  …野良猫か何かだったのか?  俺は首を振りながら部屋に戻った。  神経質になっているのか。今まで非日常を見過ぎてきた。今のささやかな日常が、逆に刺激になっているだけなのかもしれない。  ベッドにもぐり込んで目を閉じ、もうこのことは忘れよう、と思った。  案外俺の思考は単純なようだ。そう思うだけで、俺は再び深い眠りに落ちていくことが出来た。 --------------------------------------------------------------------------------  …誰かが俺を呼ぶ声で目が覚めた。 「志貴さま、お目覚め下さい、志貴さま」  いつも通りの翡翠の声。俺は深い深い睡眠の淵からゆっくりと浮かび上がる。  朝、か。カーテンが開いている。冬だというのに、今日も暖かな日射しが眩しい。 「おはようございます、志貴さま」  すぐ脇に翡翠が立っている。俺はベッドの上に半身を起こして翡翠と視線を合わせた。 「おはよう、翡翠。いい朝だね」 「はい、暖かくてよい朝です」  心なしかその顔が柔らかいような気がした。 「今日も起こしてくれてありがとう」  わずかに頬が赤くなったように見える。こうして翡翠の僅かな変化を楽しむのが、一日の始まりの日課のようになっていた。 「今日はご機嫌だね、翡翠」  なんとなくそんな言葉をかけてしまう。翡翠ははっと何かに気付いたように目を見開き、それから少し頬を染めて俯いた。そして小さな声で続ける。 「昨日は…その、申しわけありませんでした」  ああ、そんなことか。 「いや、気にしなくていいよ。どっちかというと翡翠の方が被害者なんだ。こっちこそ、済まなかったね」 「いいえ、志貴さまが謝罪されることではありません。私が悪かったのです」  翡翠は、静かだが有無を言わさぬ口調で否定する。こういう所は頑固だ。 「…まぁ、いいや。気にするな、ってことさ」 「はい」  そう返事はしても、翡翠の顔は浮かないままだった。この話は切り上げた方がよさそうだ。 「朝食だろ、着替えたらすぐに降りるよ。先に降りててくれ」 「…はい、かしこまりました」  しかし翡翠は部屋から出て行こうとはせず、視線を俺の方に向けたままだ。 「…他に何か?」  すると、決心したようにエプロンを前で握りしめて、翡翠はこんなことを言った。 「志貴さま」 「?」 「志貴さまは…変わられました。前の張りつめた雰囲気が無くなって、穏やかになったようにお見受けします。何故ですか?」  返答に困った。急に『変わった』と言われても、本人に自覚はない。俺は俺のままだし、これからも変わるつもりはないのだが…。それでも『変わった』と言われるのであれば、きっとそれは長い間抱え込んでいた様々な問題が解決したから、なんだろう。 「…そんなのわからない。俺は変わったつもりはないんだ。でも変わったように見えるんなら、きっと…」  翡翠は身を乗りださんばかりにして俺の言葉を待っている。 「…色んな経験をしたから、かな」  なんて芸のない回答なんだろう、と思う。だが、今までの一部始終を話す訳にもいかず、結局こんなところで妥協するしかなかったのだ。 「経験、ですか…」  難しい問題でも与えられてしまったような顔で、翡翠は呟いた。それはそうだ。俺だってこんな曖昧な言われ方をしても、『ああそうだね全くその通り』とは決して思わないだろう。  翡翠はしばらく考えるように視線を泳がせたが、やがて俺の方に向き直ってこんなことを口にした。 「私は、変わりたいのです」  一瞬、意味が判らず軽く首を捻る。 「今のままの私ではなく、もっと私らしい私に」  翡翠は今のままで充分翡翠らしいと思う。というよりも、今のままでなければ翡翠ではないような気さえする。それなのに、変わりたいと言う。何に?何故?何のために? 「いえ、下らない話でした。忘れて下さい」  翡翠は唐突に会話を終らせ、そのまま部屋を出ていった。  俺はと言えば、自分で種を蒔いた謎かけをそのまま返されてしまったような気がして、暫く着替えもせずに答えを探していた。  もちろん翡翠の意図など皆目判る訳もなかったのだが。  朝食の後のティータイム。俺は居間のソファーに秋葉と向き合って腰かけていた。とりたてて会話があるわけでもなく、いつも通りのかけあい漫才を楽しむような形だ。 「ですから、兄さんには躾が足りないんです」  秋葉はずけずけと思ったことを口にする。もちろん俺は自分が躾けられた素晴らしい人間だとは毛頭思わないが、面と向かってそう言われるとなんとなく腹立たしい。 「秋葉とは八年間の差があるんだ。俺はずっと放任されてたからな」 「だからといって、スプーンを使わずにスープを飲む人が居ますか!」  ぴしゃり。そんな音が聞こえそうなくらいの小さな雷が落ちた。つまり、朝食のテーブルマナーの話だ。大体皿を手に持ってはいけないなんて、一体誰が決めたんだ? 「だから俺はそういうの知らないし苦手なんだって。それとも秋葉が俺につきっきりで手取り足取り教えてくれるってのか?」 「それは…その…」  途端に秋葉は赤い顔をしてしどろもどろになる。…愛い奴め。 「だったら翡翠に教えてもらった方がいいのか?なあ翡翠?」  壁際に屹立する翡翠を振り返って話題を振ってみた。翡翠は大して動揺もせずに淡々と答える。 「もしも志貴さまがそれをお望みなら」 「ああ、是非頼むよ。秋葉が教えてくれなかったら翡翠しか居ないじゃないか」 「ちょっと兄さん!誰がご教授差し上げないと言いましたか!翡翠もこんなのにつき合わなくていいの!」  秋葉が真っ赤な顔でソファーから立ち上がる。しかし、『秋葉さま』と琥珀に諌められて消沈したように再び腰を下ろす。 「とにかく、テーブルマナーは覚えて下さい。そうね、この後琥珀に教えてもらうといいでしょう。いい?琥珀」 「はい、秋葉さま」  秋葉はすっかり気分を害してしまった様子だが、それもまぁ日常茶飯事だ。 「よろしくお願いしますね、志貴さん」  琥珀さんはいつもと変わらぬ笑顔で俺に微笑みかける。  それでティータイムは終りだった。  秋葉は冬休みの最中だというのに茶の湯の稽古に、翡翠は屋敷の掃除に散っていった。  居間には俺と琥珀さんの二人だけが残された。 「まずは食堂へ移動しましょう。マナーはそれからです」 「さぁ、じゃあ始めましょうか」  目の前には空の銀食器と銀のフォーク、ナイフ、スプーンがうんざりする程ずらりと並んでいる。俺はいつもの席に腰かけ、その後ろに琥珀さんが立って俺を教授するという布陣だ。 「コースにもいろいろありますが、今回はスタンダードなものでいきましょう。まずはスープが運ばれてきます。ではスープを飲んでみて下さい」  スープが入っているだろう皿が目の前に置かれた。早速その皿を左手で掴み…。 「違いますッ!」  ダメ出しは早かった。 「スープはスプーンで飲む、とさっき秋葉さまもおっしゃっていたじゃないですか。まずスプーンを手に取って下さい。食器は基本的に外側のものから使います。通常スプーンは一番外側もしくは手前に離れて置いてありますから、それを使って下さい」  言われてみると、なるほど、目の前にぽつりとスプーンが置いてある。ではそれを取ってスープをすくう真似をしてみる。 「そうそう、それでいいんです。そしてスープが少なくなりました。どうしますか?」  スープが少なくなったら、今度こそスープ皿を左手で掴んで…。 「ダメですッ!掴んじゃいけません!」  二度目のダメ出し。俺は泣きそうな視線を琥珀さんに向ける。 「スープが少なくなったら、スープ皿の手前を左手で持ち上げて斜めにするんです。そしてスプーンで奥の方に偏ったスープをすくうようにします」  スープ皿の手前を持って少し持ち上げる。皿が斜めになって、残ったスープが前方に集まった。…なるほど。  こんな感じで昼からもみっちり四時間をテーブルマナーの収得に費した。俺はというと、こんなものを最初に考え出した奴はよっぽど暇だったんだな、とずっとそんなことを考えていたのだが。 「そうですね、大体できるようになったと思います。夕食が楽しみですね」  そろそろ日が傾いてきたかなという頃、ようやく琥珀さんからO.K.が出た。俺はすっかり参ってしまっていて、やっと解放されるという喜びで一杯だった。  俺が椅子にもたれて背伸びをしている間に、琥珀さんは手早く練習用の食器を片付け、机の上を拭き始めた。 「志貴さんはテーブルマナーがお嫌いですか?」 「うーん、好き嫌い以前に体が受けつけないな。ここを追い出されてから八年間、自由奔放だけがモットーだったから。もっとも、追い出される前もそんなのはまっぴら御免だったけど」  琥珀さんはクスクスと笑った。厳しい遠野の家を知っている彼女にしてみれば、俺はつまり異端児なるんだろう。 「でも、羨ましいです」  手を休めて、琥珀さんはそんなことを口にした。 「私たち姉妹には、自由なんてありませんでしたから」  どきり、とした。親父のこと、俺と遊んだ少女と秋葉、シキ、そして深窓の少女。みんな縛られていた。…俺はそこから逃げ出したのだ。 「あ、いえ、でもいいんです。その分今は自由だと思っていますから」  あはは、と笑いながら琥珀さんはテーブルを拭き直した。その顔に幾許かの憂いを見て、俺はなんと言ったらいいのか言葉に詰まった。 「…俺、部屋に戻るよ。今日はどうもありがとう」  やっとの思いで喉から出て来たのは、そんな冴えない言葉だった。椅子から立ち上がり、琥珀さんに背を向ける。 「…あ、」  心臓が止まるかと思った。急に、琥珀さんが俺の背中にしなだれかかってきたのだ。 「…志貴、さん…私…」  顔は見えないが、甘い吐息のようなものが服越しに俺の背中をくすぐる。な、なんだ?一体俺はどうすればいいんだ!? 「こ、琥珀、さん…」  俺はそのまま身じろぎもできず硬直していた。背中に当てられた琥珀さんの細い腕がゆっくりと下へと滑べって行って…。  ゴトリ、と重い音がした。  視線を下へ移すと、床に倒れている少女が目に入った。 「琥珀さん、琥珀さん!」  俺は夢から醒めたように琥珀さんを抱え上げ、その小さな肩を揺すった。琥珀さんが意識を取り戻すまでは、多分10秒もなかったと思う。 「…あ、志貴さん」  その声を聞いてホッとした。俺はそっと掴んでいた両腕を離し、正座するような形で琥珀さんと相対した。 「しっかりして下さいよ。また目眩ですか?」  意識が戻ったとはいえ、まだ視線が宙を舞うような琥珀さんの頬に手を当て、俺の方へしっかりと向かせて話し掛ける。 「…え、えぇ…。なんだかまた、みたいですね」  少し落ち着いてきたようだ。俺は頬の手をそっと離し、琥珀さんの様子を見る。 …やっぱり少し痩せたような気がする。いや、『痩せた』ではなく、『やつれた』と言った方がいいかもしれない。 「無理なダイエットは体に毒ですよ?」  俺は心底心配して声をかけた。 「ああ、これはダイエットじゃなくて、秋…」  まだ少し意識が混濁していたのか、夢見るような口調で途中まで答えた琥珀さんは、そこまで言って急に我に返った。 「大丈夫ですか?」 「え、ええ、もう大丈夫です。ご迷惑をおかけしました」  さっきまでとは別人のように落ち着いた口調。  でもこのまま『じゃぁこれで』と去るのは人倫にもとるような気がするし。どう行動するのが正解かと言うと…。 「きゃッ!」  俺は動けない琥珀さんを一気に背中に背負った。上品な着物の軽い擦過音がして、彼女の体は俺の背中に密着する。…暖かくていい匂いがした。 「あ、あの、志貴さん?」 「部屋まで送るよ。しばらく寝てた方がいい」  そして有無を言わせずそのまま食堂から出て行く。  始めは硬かった琥珀さんの体も、居間から出るころにはすっかり安心したのか柔らかくなり、俺に体を預けるようになっていた。 「ね、姉さん…」  ロビーで翡翠に出逢った。俺におぶさった琥珀さんを見て、何かショックを受けたようだ。いやいやをするようにおびえた瞳。  見透かしたように背中の琥珀さんが言う。 「へへ、翡翠ちゃん、羨ましい?」 「そ、そんなことはありません!」  明らかに狼狽している。こんなに表情豊かな翡翠は始めて見る。俺の前では決して見せない、本当の翡翠。この姉妹の間には、俺や秋葉が伺い知ることが出来ない程深い絆があるのだろう。 「琥珀さんの調子が悪いからさ、大事を取って部屋に運ぶところなんだ」  我ながら説明的だなぁと思うが、いらぬ誤解を解くにはこういう台詞も必要だ。それで翡翠はほっとしたようで、いつもの表情に戻った。 「私が姉さんを運びます。志貴さまのお手を煩わせる訳にはいきません」 「でも翡翠だと琥珀さんを抱えられないだろ?まぁここは主人の我儘だと思って運ばせてくれよ」  俺はもっともな理由を付けてそのまま琥珀さんを部屋へと運んだ。翡翠は何か言いたそうな顔をするがそれ以上は何も言わず、黙って俺たちに同行した。  琥珀さんの部屋に入り、彼女をベッドに降ろしたところで、もう一度容態を聞いてみる。 「大丈夫?琥珀さん」  琥珀さんはしっかりした口調で『大丈夫です』と答えた。ただ体が動かないこと以外は問題ないようだ。  …そこで、俺はふと気付いた。 「これじゃ晩飯の仕度は無理かな。今日は出前かな?」 「いえ、それまでには回復しますよ。皆様に出前なんてとんでもない」 「でも俺はたまにはラーメンなんかもいいかな、と思うんだけど」 「志貴さんがよくても、秋葉さまがお許しにならないでしょう」  言われて、秋葉の顔を思い出した。『ラーメン喰いたい』なんて言おうものなら、自分で作ってでもまっとうな料理を喰わせられるに違いない。  そこまで黙って聞いていた翡翠が、唐突に俺の前に立った。 「ここからは私が引き受けます。志貴さまはお部屋にお戻り下さい」 「なんで?せっかくだから最後まで面倒見させてよ」  翡翠は困ったような顔をした。少し考えたようだが、こんな言葉で俺に止めをさしてきた。 「…着替えまで面倒を見るおつもりですか?」  そう言われては退散せざるをえない。とりあえず落ち着いたようだし、あとは翡翠に任せることにした。ドアを閉める直前に声をかける。 「じゃぁ後はたのんだよ、翡翠。琥珀さんもお大事に」 「どうもすみませんでした、志貴さん」  ドアを閉めて廊下に一人きりなのを確認してから溜め息をついた。男ってのはどうしてこうメンタルな部分では役立たずなんだろうな、とそんなことを考えながら。  そもそも、琥珀さんの状態があんなに悪いなんて知らなかった。自身は薬学にも精通しているくせに、医者の不養生とは正にこのことだ。まぁ見たところ体力的なものだけのようだから、暫く安静にすれば回復するだろう。  …ダイエットなんて面倒なもの、止めればいいのに。  全国の女性に後ろ指をさされそうなことを考えながら、俺は自分の部屋に戻ったのだった。 -------------------------------------------------------------------------------- 「志貴さま、志貴さま」  軽いノックの音で目が醒めた。…どうやらまた眠ってしまっていたらしい。  時刻はPM7:00。そうか、もう晩飯の時間だな。 「夕食の用意ができました。食堂の方へおこしください」  ドアの向こうから翡翠の声がする。ドアの向こうから?いつもは返事をする前に部屋に入ってくるくせに。 「ああ、すぐ行くよ、翡翠。…なんで部屋に入ってこないんだ?」  しばらく沈黙が続いたが、やがて返答があった。 「姉に仕事を任せられまして、今手が離せないのです」  きっと荷物を持っていてドアが開けられないとかそういうことなんだろうな。 「では、失礼致します」  ドアの向こうの音はパタパタと遠ざかって行く。俺も早く階下に行かなければ、また秋葉の堪忍袋の緒が切れてしまうかもしれない。  早々にベッドから起き上がり、寝起きであまり働かない頭と腹をさすりながら、俺も食堂へ向かった。  食堂には既に席についている秋葉と、その後ろに立つ琥珀さんが居た。翡翠はさっき言っていたように別の用があるんだろう、この場には居ない。 「あれ?琥珀さん、もう起きて大丈夫なの?」  俺は軽い驚きと共に琥珀さんにそう言った。琥珀さんは心無し硬い笑顔で答える。 「ええ、少し寝たら元気になりました。食事の仕度もちゃんとできましたよ」  口ではそう言うものの、やっぱり元気はなさそうに見える。  だが、俺が琥珀さんとの会話を続ける前に、秋葉が少し刺のある声で割り込んで来た。 「今回は兄さんのテーブルマナーがどのくらい向上したかを見るテストも兼ねていますから、そのつもりでお願いします。琥珀がちゃんと『教育』してくれたのでしょう?ねぇ琥珀?」 「え?ええ、まぁ…」  琥珀さんは曖昧に返答する。『まぁ』という程いいかげんなものじゃなかったぞ、あれは。俺は琥珀さんに目くばせして席についた。別に自信があるわけじゃないが、失敗したらどうしようなどと考える程臆病者でもない。 「では、頂きましょう。琥珀、料理を運んできて」  はい、と小さく頷いて、琥珀さんはまずスープを持って来た。二人の目の前に置く。俺はまず目前に置かれているスプーンを取り、小器用にスープをすくって口に運ぶ。  …秋葉は目を丸くして俺の方を見ている。ふふふ、どうだ。 「あの兄さんが…」 「失礼なヤツだな。俺だってやるときはやるぞ」 「でも、今朝の様子じゃとてもじゃないけどこんなに上達するなんて思えませんでしたよ」  秋葉は上機嫌だ。よしよし、これで今日の晩飯は美味しく頂けそうだ。我儘お嬢さまの機嫌を取るのも楽じゃない。  …と思ったら、スープの湯気で眼鏡が曇ってしまった。ちょうどいい機会だ。昨日思った通り、外して食事をしてみよう。  眼鏡を外した。…「線」は見えない。もちろん見ようと思えば見えるのだが、見まいと思えば見えないような状態になっていた。頭痛も全くない。これは…すごい。大きな進歩だ。 「あら兄さん、眼鏡を外して大丈夫なんですか?」  秋葉がそう言うのはもっともだ。俺は八年前に先生にこの眼鏡をもらってから、外して他人と相対したことはない。「線」を見るのが恐かったし、なによりそんな状態で落ち着いて食事なんかできなかったから。 「でも、私は素顔の兄さんの方が好きですよ」  心なし穏やかな口調で、秋葉はそんなことを口走る。そういえば琥珀さんも昨日そんなことを言っていたような…。 「琥珀は眼鏡姿の兄さんの方が気に入ってるそうですけど」  あれ?それは昨日に聞いたのと違う。そうなの?と視線で琥珀さんに聞いてみる。 「いえ、私は素顔の志貴さまの方が…」  琥珀さんは淡い笑顔のままでそう言った。秋葉は少し怪訝な顔をして琥珀さんを見る。 「前は絶対眼鏡がいいって言ってたのに。心境の変化?」 「ええ、まぁ、そのようなものです」  琥珀さんは曖昧に答えた。まぁ移り気のある琥珀さんのことだ、好みが変わっても別に驚くには値しない。  それよりも俺は、琥珀さんの胸に釘付けになっていた。  …緑の光だ。  昨日翡翠の胸にもあったその光。一体何かは判らない。この姉妹だけのものなんだろうか?  秋葉を見てみる。  俺は椅子からずり落ちそうになった。  これは…「線」なのか?  それは「線」というよりは「渦」に近い。『凶々しく輝き、あるいは蠢き、あるいは消え入りそうにとぐろを巻く』モノ。秋葉の胸部で小さく脈動するそれは、確かに俺の中に見たモノに酷似していた。なんだこれは?なんダこレは?なンダコれハ?ナンダコレハ? 「兄さん?どうしたの?」  秋葉の声で我に返った。  俺があまりに呆けた顔をしているものだから、秋葉がいぶかしんでいる。今の「渦」の正体は気になるが、当面はお嬢さまの世話に戻ることにしよう。 「いや、なんでもないんだ。ちょっと琥珀さんにみとれただけ」  冗談めかしてそんなことを口走ってみた。いつもの琥珀さんなら『やだもう志貴さんたら』とかそんな感じで軽く受け流すはずだ。  でも、今日の琥珀さんは少し頬を染めただけだった。…あれ? 「琥珀さん、まだ疲れてるんじゃない?」 「いえ、そんなことはありません。大丈夫ですよ」  琥珀さんは手をひらひらと俺に向かって振ってくれるが、その手の動きでさえも頼りなく見える。 「無理はしないでよ、ホントに」  あまり追及するのも悪いので、今はこの程度で止めておこう。 「琥珀、ちょっと」  ステーキを切っていた秋葉が琥珀さんを呼んだ。 「いつもとくらべて少し味付けが濃いわ。あなたがこんなことをするなんてやっぱり調子が悪いんじゃないの?」 「…申しわけございません」 「いいのよ、たまにはこういうこともあるわ。翡翠に任せる訳にはいかないから、今日は早く休んで養生なさい」  今日は俺が大人しいためか、秋葉も幾分優しい声でそう言う。琥珀さんが少し困ったような顔をしたので、俺はすかさずフォローを入れてみた。 「いや、確かに味付けはいつもと違うけど、これはこれですごく美味しいよ、琥珀さん」  琥珀さんはまたいつもの笑顔に戻った。…いや、どちらかというと、いつもよりも嬉しそうにすら見える。うん、ナイスフォローだ、俺。  結局、その後何事もなく夕食は終了した。努力の甲斐あって、秋葉は俺のテーブルマナーの上達ぶりに終始ご満悦だったし、琥珀さんも言葉少なで他にあまり話題が発展しなかったというのも理由の一つだ。翡翠が居なかったので諌め役が不足していたということもあるだろう。  俺は、こんな繁雑で息のつまるような食事は二度と御免だと思っていたのだが、どうやら秋葉は毎日これを俺に強制する気らしい。『次からも期待していますから』なんて言われてしまうと、俺としても断るわけにもいかなくなってしまう。  …明日からの食事を考えると、気が重い。  PM10:00。消灯時間が過ぎたというのに、俺は琥珀さんが気になっていた。あの人のことだから、明日体調が悪かったとしても俺たちの食事の世話を厭うまい。いざとなったら俺が何か作るから、と、それだけでも念押しに行こう。  そう決心して、俺は琥珀さんの部屋へと向かった。  階段を降りる直前、視界をちらりとかすめたものがあった。  …翡翠?  ちらりとしか見えなかったが、今のあつぼったいメイド服は確かに翡翠だ。こんな夜中へどこへ行くんだ?  別に尾けた訳じゃない。訳じゃないんだが、向かう方向が同じだったようだ。翡翠は俺に気付かず、俺の前を琥珀さんの部屋へ向かって歩いて行く。俺は何か後ろめたい気分になりながら、その後を追った。  果して、翡翠は琥珀さんの部屋のドアをノックした。そしてそのまま滑べるように中へ入っていく。  さて、困ったぞ。  このまま俺がその後ろについて部屋に入ると、何か一悶着起きてしまいそうな気がする。かと行ってこのまま様子も見ずに自分の部屋に帰るのも癪だ。  俺は琥珀さんの部屋の前でしばらく犬のようにぐるぐると逡巡していた。  …と、部屋の中から話し声が聞こえてくる。こんな時、人間はいけないと知りつつも聞き耳を立ててしまうものだ。 「…大体うまくいきました」 「さすがは秋葉さまよね、お気づきなんて」 「でも姉さん、もう私はあんなのは…」 「何言ってるの。翡翠ちゃんも念願叶ってよかったじゃない」 「…」 「大丈夫、明日には私も元どおりになるわ。…きっと遠野の血が強くなりすぎたのね」 「もっと御自愛下さい、姉さん」 「心配かけてごめんね、翡翠ちゃん。…今日はもうお休みなさい」 「…はい」  何の話をしているのかさっぱり判らない。だが、内容を考える前に、翡翠の足音がドアに近づいてくるのを察知した。俺は慌てて足音を立てぬようその場を離れた。  自分の部屋に逃げ帰ってベッドに寝転び、さっきの会話の内容を考える。  琥珀さんは確かに『遠野の血』という言葉を口にした。またその言葉。何度も何度も俺や秋葉が翻弄されているその言葉。もう平和になった筈だった。シキはいなくなって、遠野の血はこの日常を壊さない筈だった。  なのに、また。  またこの血が琥珀さんを苦しめている。理由は判らないが、琥珀さんはこの血に苦しめられている。  何故だ。  俺はただ平凡でありふれた普通の毎日を送りたいだけなのに、遠野の血がことごとくその邪魔をする。  俺はこの血を制御しなければならない。俺の中にはない、呪われた血筋を。もちろん一人の犠牲者も出さずに、だ。  それが俺の、当面の使命のような気がした。 --------------------------------------------------------------------------------  目覚めたのはAM10:00ころだった。  今日はめずらしく翡翠が俺を起こしに来なかったようだ。  ベッドから起き上がって窓のカーテンを開けた。…今日もいい天気だ。  冬だということを忘れさせるくらいに青く澄んだ空と心地よく柔らかな風。ひっそりと青草の匂いがして、俺は早春に居るんじゃないかと錯覚してしまうようだった。  階段を降りて居間に向かったが、そこには誰も居なかった。  …腹が減った。  今からだと朝飯兼昼飯になるだろうが、とりあえず食事をしないことには目が回りそうだ。なのに今日に限って翡翠も琥珀さんも見当たらない。秋葉はまた習い事だのなんだので屋敷の外へ出ているのだろう。  俺は二人を探して屋敷内を放浪することにした。たまにはこういうのも悪くない。よく考えたら、八年間のブランクの後、俺は屋敷の中をよく知らないままだ。  東館の一階から二階へ、そして西館の二階を回って一階へ。屋敷がほぼ左右対称に作られているので、それぞれの廊下は鏡写しのようになっている。そういう意味では全く変化がないのだが、そこは子供の頃の俺、ちゃんと工夫をしておいたのだ。間もなく俺はそれを発見した。  秋葉の部屋の前の柱だ。腰くらいの高さの所に小さな傷が二つ。傍には鉛筆書きの消え入りそうな文字で、『おれ』と『あきは』とある。  八年前、俺が屋敷を去る最後の日、秋葉と背比べをした跡だ。 「あきはと兄さんで、比べるの」  秋葉は泣きそうな目でそんなことを言っていたっけ。 「大きくなったら兄さんより大きくなるから、その証拠にするの」  あのころはこんな背丈しかなかった。しかも二人の身長差はわずかに2cm程度。今では頭一つ以上違うということを考えると、八年という年月の長さを改めて思い知らされる。  だが。  俺は変わっていない、つもりだ。秋葉はちょっと厳しくなったような気がするが、時おり見せる怯えた瞳とはにかんだ笑顔は、八年前と少しも変わっていない。 「…私は、変わりました」  落ち着いた声が聞こえた。慌てて視線を上げると、ドアが開いてそこに秋葉が立っていた。 「覚えていますか?その傷を付けた時のこと」  ああ、と俺は頷いて立ち上がった。 「やっぱり私、兄さんより大きくはなれませんでした」  秋葉は昔のままのはにかんだ笑顔を浮かべた。 「そんなことはないさ。背はそうだけど、中味は全然大人になってた」  俺はついそんなことを口走る。気休めだと判っているのに、秋葉は少し安堵したようだった。 「兄さんはちっとも変わりませんね。あの時のまま大きくなったみたいに」 「それも違うぞ。俺だって…変わったさ。色んな経験をしてきた。辛いことも沢山あったけと、でもだから今俺は笑っていられるんだ」  秋葉は笑顔のまま、こんなことを口にした。 「兄さんは…強いんですね」 「秋葉程じゃないさ」  それはお世辞じゃない。本当に秋葉は大人になった。体もそうだが、重く苦しい遠野のしきたりを守り、それでも俺の前では笑ってくれる。俺は少女の成長に目を細めるばかりだ。自嘲的ですらある。 「兄さん、背比べ、しましょう」  秋葉は急にそんなことを言い出した。唐突だが、断る理由もない。俺も賛成する。八年前からの、約束だもんな。  ポケットに入っていた七夜のナイフを取り出し、まず俺が柱の側に立った。身長の位置にナイフを突き立て、そのまま左右に引っ張って真新しい傷を作る。  次に秋葉が柱の側に立ち、俺がその頭頂付近の位置にナイフで傷を付けた。俺に気付かれないよう一生懸命背伸をしている秋葉が可愛くて、傷の位置は少し上に上げておく。 「どうですか?」  待ち詫びたように秋葉が柱の傷を確認する。差は20cm程度。それでもかなり『オマケ』が付いているので、実際にはもっとあるだろう。 「もっとあるかと思ったら、意外に差は少ないんですね」  俺は曖昧に頷いた。俺の心遣いを知ってか知らずか、秋葉は柔らかな微笑みで俺に視線を投げ掛ける。…女は、恐い。 「こんなことをしてると、翡翠に怒られそうですね」  秋葉は右手を口に当ててクスクスと笑った。そうだな、掃除する身になれば、無意味にこんな傷を屋敷に残すことを快くは思わないだろう。 「そういえば、琥珀さんか翡翠を見なかったか?さっきから探しているんだけど」  俺は腹が減っていることを思い出して話題を変えた。 「琥珀はまだ体調が優れないので、朝食の後は部屋で休んでいます。翡翠は先程中庭の方で見掛けましたが?」  秋葉ば躊躇せずそう答えた。…ということは、俺の食事の準備は翡翠にお願いするしかないんだろうか? 「そうか、ありがとう。中庭だな」  俺は礼を言って中庭に向かった。  中庭に到着して、すぐに翡翠を見付けた。慣れない手つきで花壇の草むしりをしている。冬だからそんなに雑草が多いわけではないが、元々よく手入れされていた花壇だから、雑草があれば目立つ。 「翡翠?」  俺はためらいがちに声をかけた。一生懸命な翡翠の作業を中断させたくなかったからだ。しかし翡翠はその手を止め、つと立ち上がって姿勢を正した。 「何でしょう、志貴さま」  大真面目な翡翠だが、手が土で汚れ、花壇の中にハイヒールで立ちつくすその姿はどこかユーモラスで、俺は不覚にも噴き出してしまった。 「…志貴さま?」 「いや、悪い。ちょっと意外だったからさ。ここは琥珀さんの管轄だろ?なんで翡翠が花壇の世話をしてるのかな、って」  翡翠は別段驚く様子もなく答えた。 「今日は姉の調子が悪いので、私が代理です。花壇は世話をしないとすぐにダメになってしまいますから」  …意外だ。翡翠からそういう言葉が聞けるなんて。感情に起伏が少ないとはいえ、花を愛でたりする心まで失っている訳ではないらしい。…よく考えたら当たり前のことだ。 「…今、何か失礼なことをお考えになりませんでしたか?」  う。翡翠め、時々鋭いことを言う。 「あーいや、そんなことはないぞ、うん」  弁明してみるが、翡翠の疑いの眼は晴れない。 「ええと、そう、朝飯がまだなんだけど、どうすればいい?」  逃げ口上のように俺はそう言った。翡翠の眼差しは厳しいままだが、それでも別の話題に移ったことで追及から逃れることは出来そうだ。 「…朝食は既に片付けました。あと一時間で昼食になりますので、それまでお待ち下さい」  事務的な口調だ。いやしかし俺は今正に腹が減っているんだが? 「何でもいいんだ。すぐ口に入るようなものが無い?」  翡翠は暫く考えて、しかし淡々と言った。 「我慢下さい。もう少し早く起床下さればこんなことにはならなかったのです」  …あれ?もしかして、翡翠、怒ってる? 「参考までに聞くけど、今日俺を何回起こした?」  翡翠は飽きれるように俺を見て、微妙に眉をひそめた。 「覚えていらっしゃらないのですか?」 「全然」 「五回です。AM6:30から30分おきに一回づつ。それでも起床頂けないので、秋葉さまと相談して朝食は片付けさせて頂きました」  それじゃ怒っても仕方ないか。あいかわらず俺の眠りは深くて自分でも惚れ惚れする。 「…それは、済まなかった。判った、昼飯まで我慢するよ」  俺は退散するしか無かった。大袈裟に『やれやれ』というポーズを取って、翡翠を後に屋敷に戻って行く。 「あの、志貴さま」  呼ばれて後ろを振り向くと、翡翠が俯き加減のバツの悪そうな顔で何か言いたそうにしていた。 「…厨房の冷蔵庫に、練習で剥いた林檎があります。当面でしたらそれで事足りると思います」  こういうところが、翡翠のいいところ、なんだろうな。うん。 「ありがとう。それ、頂くよ」  俺は今度は片手をひらひらと元気良く翡翠の方に振った。屋敷に向かう足どりも自然と軽くなる。 「…」  厨房で、俺はその林檎を目の前に困っていた。 「普通、切るだろ?」  一人ごちる。皿の上には、美しく皮を剥かれて、しかしそれだけの林檎が一つ。ご丁寧につまようじが一本刺してある。  …もしかしたら翡翠は『林檎』と言えばこんな感じで丸ごと食べるものだと思っているのかもしれない、と恐いことを考えた。 --------------------------------------------------------------------------------  寒い。  夕食が終って、今はささやかな自由時間。例によってテーブルマナーを強要された俺は、秋葉の上機嫌な笑顔とは裏腹にすっかりブルーだった。  だが寒いのは別の理由がある。  窓の外には白いものが。夕方から降り続いた雪が、もう5cmは積もっただろうか。  このあたりで雪が降るのは珍しい。俺も何度かしか見たことがない。普通ならこのまま外へ行って大きな雪だるまを作ったりするのだろうが、あいにく俺にはもうそんな趣味はないし、この屋敷でそれが許されそうにもなかった。  俺の部屋には暖房器具がない。というより、屋敷の中にそんなものがあるのは居間だけだ。しかも今時暖炉。俗物を嫌った親父の好きそうな骨董品だ。  寒い。寒い。寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い寒い!  俺はこんな時どうすればいいか知っている。ベッドにもぐり込んで寝るのだ。これに勝る防寒法はない。  そんなわけで、俺は早々にベッドに入った。まだPM11:00、普通のご家庭なら「夜はこれから」と言わんばかりに深夜TVを見たりするのだろうが、この屋敷ではこれでも遅いくらいだ。大体PM10:00が消灯時間なんだから。  PM10:00が消灯時間…?  初めて気付いた。今晩はまだ翡翠が来ていない。消灯前に見回りで必ず俺の部屋を覗いて行くというのに、今日に限って翡翠は顔を出さない。  どうしたんだ?  最近、琥珀さんと翡翠はおかしい。琥珀さんは体調不良のようだが、翡翠はどうにも言動や行動が突飛な気がする。そういえば、「変わりたい」と言っていた。あれを『変化』と呼ぶのなら、その目論見も成功しているのだろうか。  でもあれは。  どっちかといえば『変化』じゃなくて『変』なんだよな。  俺はベッドの中で一人含み笑った。  静かだ。  夜、自然が多く残るこのあたりでは、春は鳥、夏は蛙、秋は虫と四季折々の楽器が鳴り響く。  だが、冬は違う。  耳が痛くなるばかりの静寂。  何もない、そこは『無』だけの空間。  それが、冬の夜だ。  俺は冬が好きだ。こんなに静かなら、嫌なことが何もかもが嘘の用に思えるから。  そして、雪。  雪は全てを多い隠す。綺麗なものも汚いものも、分け隔てせず平等に。  俺の目も、遠野の血も、七夜の悲劇でさえも。  だから。  俺は冬が好きなんだ。  …目が、醒めた。  まだ夜が明けたわけではない。それなのに目が醒めてしまったのは、何かを感じたからだ。  それは、声、だった。  まただ。消え入りそうな小さな声。どんな気持ちで、何を言っているのかすら判らぬ、瑣末で微妙でささやかな音。しかしそれは、まぎれもなく「声」だった。  やはり俺は、この声を知っている。  誰の声か判らない。だが、俺はこの声をよく知っているのだ。  俺は布団から起き上がり、ガウンを羽織って部屋を出る。  まるで引き寄せられるように、声の方向へと歩いて行く。階下から招くように途切れがちな小さな声を追いかける。  廊下を抜け、ホールの階段を降りる途中で、声はぴたりと止まった。  俺はその場でしばらく立ちつくしていた。結局、声の方向は判らない。もう一度聞けば判るかもしれない。それを待った。  一分だったのか、それとも十分は待ったのか。  静寂に耳鳴りが始まったころ、再び声が響いた。  今度は前よりはっきり聞こえる。これは。  歌だ。  間違いない、細い囁くような声で奏でられる小さな歌。音程が霞む度に、俺は何かを思い出しそうになっていた。  この歌を、俺は知っている。  忘れる筈もない、この歌は。  俺のために。  俺は声の方向を見た。正面玄関の重々しいドアがある。勢い良く、それを開け広げた。  瞬間、俺は言葉を失った。  それは、美しい光景だった。  雪はいつの間にか止み、庭は一面白の絨毯を敷きつめたように厚い雪に覆われている。空には満天の星空。何よりも、その中央に位置して白銀の光を放つのは、十七夜の美しい郭月だった。  そして、その下に、歌の主は居た。  二人だった。  あのステージの上で、絡み合う二つのシルエット。月光に明るく照らし出されたその肢体が、あまりにも艶めかしく、あまりにも美しくて、俺の視線は釘付けになった。  一人はしなやかなネグリジェ、もう一人は落ち着いた色の着物。  それはつまり。  秋葉と琥珀さんだったのだ。 「秋葉!」  俺は叫んでいた。気付いたからだ。  秋葉が、はだけた琥珀さんの胸に口付けしていることに。  その口から赤い線が滴っていることに。 「秋葉!」  もう一度秋葉を呼んだ。思い出したように秋葉の目だけががこちらを睨む。  ぞっとした。  陰鬱な光。荒い呼吸。そして、…燃えるように鮮やかな赤の髪。  反転、している。一目瞭然だった。 「志貴、さま…」  琥珀さんは焦点の定まらない瞳で弱々しくそう呟いた。秋葉に体液を奪われるがままのその体。手も足も力なく雪の上に投げ出され、秋葉がそれを支えていなければ、そのまま雪に埋もれてしまいそうな程に心許ない。  …助けなければ。  その一心だった。秋葉を、琥珀さんを助けなければ。反転した秋葉に抑制の力はない。このままだと琥珀さんの体液は一滴残らず吸い取られてしまう。  俺はガウンのポケットから件のナイフを取りだした。  気をつけなければならない。加減を間違えば、秋葉を殺してしまうかもしれない。だが俺には自信があった。俺のチカラは以前より強くなっている。これなら、致命傷を避けて秋葉を抑えることが出来るかもしれない。  眼鏡を、取った。  線が、見える。だが、不思議と頭痛はない。  二人を見る。  が、秋葉が、見えない。  琥珀さんは見える。その胸にあるあの微妙な緑の光も。  だが、その隣にあるのは、人の形をした、大きな黒い渦だったのだ。  ぐるぐると渦巻き、その中心は必ずしも定位置にはない。微妙に動いている。大きくもなり、小さくもなり、生き物のように脈動している。  今なら、理解できる。これは、秋葉だ。秋葉の中の、呪われた血だ。反転で現れた、秋葉の黒い部分だ。  二人に向かって、雪の上を一歩踏み出す。  ざく、と夜の冷気に凍った雪が乾いた音を立てた。  ざく、ざく、ざく。  新雪の上に、俺の足跡だけが残る。…一歩一歩が辛い。二人に近づけば近づく程、俺は憂鬱になっていく。  秋葉を、止めなければ。そうしなければ、琥珀さんの生命が尽きる。  しかし俺に。秋葉を止められるのか?変わってしまった秋葉を。妹を。今の赤い鬼を。  思い出していた。二人の約束を。あの月の下で交わした、辛い契りを。  秋葉を、守るんだ。  約束を守るんだ。それが兄貴としての務めだから。  最後の一歩を踏みしめて、遂に俺はステージの前に立った。 「秋葉!」  俺は叫んだ。その声で秋葉を威嚇するように。  秋葉はつと琥珀さんの胸から口を離した。  その目に、既に理性はない。血に呑まれた遠野の者は、帰ってくることはない。親父がそうであったように。…今の秋葉がそうであるように。  秋葉を見た。黒い渦を凝視した。その中に走るいくばくかの線を見出した。それが、秋葉の線。致命傷にならないが、刺せばその部分の死を防ぐことができない、文字通りの死線。  俺は、ナイフを構えた。あと一歩、あと一歩踏み出せば、秋葉を切れる。  …しかし、俺は躊躇してしまったのだ。  その隙を、秋葉は見のがさなかった。 「ガァァァアァッ!」  鋭い獣の叫びを上げて、信じられない程の身のこなしで俺の頭上を飛び越えた。手放された琥珀さんが、ゴトリと重い音をたてて雪の上に倒れ込む。血潮が白い雪に飛び散って、雪の上に点々と鮮やかな紅の文様を作っていく。  秋葉はそのまま雪の上を飛ぶように走って、庭の奥へと消えて行った。  まず俺は呆気に取られた。そして次に安堵した。激しい抵抗を予想していたからだ。時間がかかれば俺の決心は鈍る。秋葉を刺すことなどできなくなるかもしれない。当面は、これでいい。  雪の上に投げ出された琥珀さんを抱きあげる。  生気のない瞳で、何かうわごとを呟くように口を動かしている。  …あの、歌だ。 「琥珀さん!しっかりしてよ、琥珀さん!」  俺ははだけた着物を直しもせず、琥珀さんの両肩を持って強く揺すった。琥珀さんはぼうとした瞳で俺を見て、そして言った。 「…志貴、さ、ま…」  それで俺は、ようやく気付いた。  今までの異和感が一気に氷解した気がした。今まで見えなかった一本の糸、それを発見してしまった。 「…翡翠?翡翠なのか?」  そうだ。今までどうして気付かなかったんだ。俺を「志貴さま」と呼ぶのは、この屋敷には翡翠しか居ないじゃないか! 「…なんでお前がその服を…?」  肩を抱き止めたまま、俺は翡翠の目を見ていた。やや憂いを帯びたその瞳は、確かに翡翠のそれだ。 「…私は、」  翡翠は焦点の定まらない目でぼんやりと呟く。 「私は、変わりたかったのです」  唐突にそう言った。しばらく本意を計りかねて、俺は次の言葉を待つ。 「ただ、自分を試したかっただけなのです」  やっぱり俺には理解できなかった。前にも翡翠はそんなことを言っていた。変わる?変わるって何だ?一体何に変わりたかったんだ? 「私は…『翡翠』に帰りたかったのかもしれません。今の翡翠ではなく、八年前、志貴さまとこのお屋敷を闊歩していた、あの頃の『翡翠』に」  …ああ、そうか。ようやく判った。  だから翡翠は『琥珀』を演じたんだ。昔の翡翠を真似た存在の、今の『琥珀』を。 「姉さんが倒れた時、最初はチャンスだと思ったのです。自分を試せる、絶好の機会だと」  翡翠は淡々と続ける。熱にうなされるように、或いは遺言のように。 「だから、今度は私が『琥珀』になりました。料理を作って、志貴さまとお話をして。それが楽しかったのです」  一筋の涙が翡翠の頬を伝った。 「でも、こんなことになるなんて」 「話してくれ、何故秋葉は変わった?それもお前が原因なのか?」  びくり、と翡翠の肩が反応した。…イエスの証拠だ。 「…秋葉さまは、私の血を呑んだのです」  そうか、秋葉は琥珀さんの血で遠野の血を抑えている。二人が入れ換われば、秋葉が呑む血も変わる。でも。 「翡翠は琥珀さんと双子なんだろ?その血だって同じじゃないのか?」 「いいえ、違います。姉は遠野の血の抑止を司る感応者ですが、私は違うのです」  いつになく強い口調で翡翠は言った。 「今回初めて判りました。私は、人の血の抑止を司る感応者なのです」  翡翠は、吐き捨てるようにそう言った。確かに、それなら辻褄は合う。今まで琥珀さんの力で抑えられていた遠野の血が、翡翠の血で甦ったわけだ。そして秋葉は『反転』した…。 「それが先代さまが姉さんを選んだ理由だったのです」  翡翠の体が小刻みに震えている。寒いからだけではない。 「…私は、…不要な者でした…」  翡翠は激しく嗚咽した。雪の上に跪き、声を押し殺して涙を流している。白い雪の上に、涙に混ざってぽたりぽたりと朱の雫が落ちて行く。 …秋葉の付けた傷痕から流れる、翡翠の血だ。人の力を抑える魔性の血。  考えてみれば、こんなに哀れなことはない。姉妹で無理矢理連れて来られ、一人は牢獄に、一人は自由に育てられた。その理由が利用価値の有無だったなどと、一体誰が考えられよう。 「でも俺には、」  なんとか俺は翡翠を助けたいと思った。この場限りではなく、これからの翡翠をも支えたいと思った。 「翡翠が必要だ」  驚いて翡翠は顔を上げる。 「翡翠の血なんて要らないし、関係ない。だけど、毎朝起こしに来てくれて、時々料理を作ってくれて、それで二人で布団を干して、俺はそんな毎日を送りたい。だから、俺には翡翠が必要なんだ」  俺は繰り返した。そして笑顔を作った。…作っただけの笑みだったかもしれない。だが、俺はそれでも笑った。笑うことで翡翠を救えると、そう信じた。  翡翠の顔を美しいと思ったのは、月明かりのせいだったのか。  つと、翡翠は立ち上がった。そのまま後ろを向いてしまう。 「秋葉さまを、お助け下さい」  懸命な、絞りだすような口調だった。だが、そこに悲壮感はない。俺はそれを悟ってほっとした。 「まかせとけ、大事な妹だからな」  俺はそう軽口を浮かべて、翡翠をの肩をポンと叩いた。この寒空の下、そこにかなりの火照りを感じた。 「先に屋敷に戻ってくれ、翡翠。俺は秋葉を連れ戻す」  そのまま俺は振り向いた。秋葉を追おうと足跡を探す。  …と、背中にやわらかな感触。腰にそっと添えられた細い翡翠の腕。ささやかな息づかい。  俺は、背中から翡翠に抱きしめられていた。 「…どうか、ご無事で…」  泣いているようなか細い声。 「心配するな」  それだけしか、言わなかった。振り返れば翡翠を抱きしめてしまいそうな、そんな気がした。  俺は無言で雪の中を走り出した。  秋葉の後を追うのは簡単だった。雪の上に続く裸足の足跡と、所どころに点々と落ちている赤い染み。その痕跡と辿れば、その先に秋葉が居る。  だが。  俺は秋葉をどうすればいい? 「約束してください」  全てを受け入れて、変わってしまった秋葉と永遠に添い遂げるのか? 「もし私が変わってしまったら、」  それともその華奢な体にナイフを突き立てて、全てを終わらせるのか? 「貴方の手で殺してくれるって」  俺は強く頭を振った。それでは駄目だ。いずれにしても秋葉を失ってしまう。他に方法は?何か策があるわけではない。だが、俺は気付いていた。  他にももう一つ、俺にしかできないことがある筈だ。  今の俺なら、それができる。確認している時間はない。それに賭けるしかない。  果して、俺は森の中の広場へ出た。  広場の中心まで延びる足跡がふらふらと逡巡し、そこかしこに血の痕を付けている。そしてその終点には、苦しそうに蹲り、長い髪を振り乱した少女が居る。 「秋葉…」  近付いて行く。ゆっくり、ゆっくりと。 「に、い、さん」  つい、足が止まった。判っている。判っている筈なのに、立ち止まってしまった。  まだ、変わりきっていない。  だが、その髪は既に血のように赤く染まっている。直感で判る。こうなると戻っては来れない。暗く閉鎖された空間に閉じ込められ、二度と出て来れない。そして本人の意志とは無関係に、血を欲する鬼になるのだ。  変わってしまう前に。 「…こな、い、で…!」  可憐な唇が、最後の正気を失う前に。 「…コ、ナ、イ、デ!きチャ、だメ!」  秋葉が秋葉でなくなる前に。  俺は、秋葉を抱きしめた。 「ガ、ああああァァァ!」 秋葉は暴れた。俺の腕の中で激しく暴れた。その華奢な体のどこにそんな力が籠っているのか。俺の体は、暴れる秋葉の猛烈な力に屈っしようとする。  …でも俺は、秋葉を抱きしめ続けた。力いっぱい、たとえこの腕が折れたとしても、少女を抱きしめていたい。 「もういいんだ、苦しまなくていいんだ。秋葉は、そのままでいいんだ」  俺は自分に言い聞かせるようにそうつぶやいた。そして秋葉を見る。  体に走るいくつかの線を。体を覆う、黒い渦を。その中心、脈動し、秋葉を飲み込もうとする凶々しい黒い点を。左胸にある、その一点を。 -------------------------------------------------------------------------------- その一点を、 俺は、 ナイフで、 刺した。 -------------------------------------------------------------------------------- 「…あッ」  秋葉が止まった。真顔になって、少しだけ驚いたような表情をした。そして自分の左胸に深々と柄まで尽き刺さったナイフを見る。木柄には消え入りそうな「七夜」の文字。  それは紛れもない、俺のナイフだ。  俺が、刺した。秋葉を、殺すために。  秋葉が前のめりに倒れ込む。まるで俺と抱き会うように、秋葉は俺の腕にしなだれかかった。髪の色が突然真っ黒に、秋葉の色に変わった。同時に、意識も秋葉のそれに戻った。 「に、…にいさん…」  苦悶の表情で、秋葉はつぶやく。顔は青白く、緑なす黒髪は心無しつややかさを失っていた。胸から血は流れ出さない。「点」も「線」も相手を傷つけるものではなく、ただ「殺す」ためだけのモノだから。  俺は泣いていた。胸がはり裂けそうだ。今、妹を苦しめる原因を作ったのは俺自身。しかしそれは、代償なのだ。  泣きながら、俺は秋葉を抱きしめていた。 「にい、さん、…わ、たし…」  俺の腕の中で、今正に息絶えようとしている小さなイノチ。秋葉。  済まない、すまない、すまない、すマナい、スマナイ。  ゴめん、ユルしてクれ。こンナ、ことでシか、おまエをすクえナイ。  心の中は後悔でいっぱいで、頭がねじ切れそうなのに。いっそ怨嗟の声の一つでも投げつけて欲しかったのに。  秋葉は消え入りそうな声で、こう言ったのだ。 「ありが、と…やく、そく、…守って…くれ、て…」 俺は、壊れそうだった。 もう秋葉の苦しむ姿なんて、 二度と見たくなかったのに。  俺の腕の中で、秋葉はゆっくりと目を閉じた。その目に光るのは嬉し涙か。  俺が約束を守ったことに?  それとも俺が約束を破ったことに?  俺は少女が崩れ落ちないように、しっかりと胸に抱き止めるしかなかった。  耳が痛い。  降り注ぐ静寂で、割れるように耳が痛む。  それはまるで。  俺の涙のようだった。 --------------------------------------------------------------------------------  遠い遠い暗闇の中。  心臓の鼓動が聞こえる。  とくん、とくん。  それはまるで小さく、でも確かなイノチの躍動で。  聞いているだけで暖かな気持ちになってきて。  …そして、少女は目覚めた。 「…あ、…ん…?」  少女が目を明けた瞬間、俺は少女の唇を塞いだ。完全な不意打ち。それだけ、嬉しかった。嬉しくて、嬉しくて、涙が、止まらなかった。  少女は驚いたようなそぶりも見せず、まだ混濁した意識のままで、それを受け入れた。少女の頬に、俺の涙が落ちて、まるで少女が泣いているように見えた。 「…にい、さん…?」  徐々に意識が戻ってくる。  ここは…わたしのへや。わたしはベッドでよこになっていて、めのまえではにいさんがないている。でもそのかおは、わらっている、みたい。 「あきは。…よかった。ホントに、よかった」  俺は心底そう思った。 「兄さん?」 「全て終ったんだ。お前は自由になったんだ」  秋葉の頬を撫でながら、俺は言った。秋葉は事情が呑み込めないようだ。無理もない。俺が秋葉の『点』を切り、彼女は苦しみ、そして死んだ。そう、彼女は、死んだのだ。 「済まない、秋葉。理由も告げずに、お前に酷いことを…」  俺は頭を下げた。それこそ誰にも下げたこともない程深々と。秋葉はやはり目を白黒させている。そうだろう。普通なら死んでいる。俺が切ったモノが、秋葉のイノチなら。 「…説明して、くれますね?」  ややもして、秋葉は落ち着きを取り戻したようだ。自分の身に起こったことを理解しようと、凛とした視線を向けた。  そうだ、説明しなければならない。秋葉が生きている理由。反転が止まった理由を。 「俺は、あのとき確かにお前を殺した」  できるだけ抑揚のない声でそう言った。でも心の奥が、その言葉の恐ろしさに震えている。否、秋葉のイノチを殺したんじゃない。俺が殺したモノは。 「お前の中の『遠野の血』を殺したんだ」  言って、やっと胸が楽になるのを感じた。これが、俺のチカラ。シキが死んで、俺に戻った俺本来のチカラ。人の中の人外のモノ。正や負の感情。喜びや悲しみ。そういった全てのモノを、俺は見ることができる。そして『殺す』ことができる。 「お前はもう変わらない。血に負けることもない。普通の人間になった」  秋葉は目を見開いて驚いている。 「…そんなことが…!」 「できるんだ。俺の目は、お前を、遠野の血筋を救うこともできるんだ!」  言って、俺は笑った。でも涙も止まらなかった。  忌々しく呪われた遠野の血。何百年にも渡って営々と続いた、狂気と殺戮の血筋。それを断つことができる。天寿を全うできなかった遠野の人々に、新たな可能性を示すことができる。  何より。  秋葉と二人で。  この先を。  生きていける。  それだけで、それだけが、たまらなく嬉しい。  先生は言った。『あなたの意志で、正しく使いなさい』と。これは俺の意志だ。誰かを救う、正しい使い方だ。誰も不幸になることはない、こんな奇怪なチカラを持った俺さえも、このチカラで幸せになることができる。そんな使い方があったんだ。 「兄さん?」  秋葉をもう一度、ぎゅっと、強く抱きしめた。抱きしめた腕の間から逃げて行かないように、強く、強く。 「兄さ、ん、いた、い、よ」  構うもんか!お前はもう、自由になったんだから!  ふと、思い出した。そうだ、忘れるところだった。秋葉に言わなければ。秋葉は帰ってきた。遠野の家に帰って来たんだ。 「…おかえり、あきは」  言えなかった言葉を口にした。 「…ただいま、兄さん…」  秋葉は、俺の腕の中で微笑んだ。それは今まで見て来た秋葉のそれとは少し違って、限りなく優しく、そして穏やかだった。 --------------------------------------------------------------------------------  俺は秋葉の部屋を出て、中庭に向かっている。  俺の仕事は、もう一つ残っている。  玄関のドアを開けると、噴水の前のステージの上に、翡翠が立っているのが見えた。ぼんやりと虚空を見つめるその姿を、儚い、と思った。 「翡翠」  声をかけた。少女はゆるゆるとこちらへ向き直る。いつも通りの無表情な顔。だが今日の彼女は、どことなく寂しげにすら見えた。 「多分、お前を救うことができる」  俺はそう言った。おそらく翡翠も気付いているのだろう。その表情に驚きはない。  そう、俺には見える。その中の、昔の翡翠と、今の翡翠が。二つの翡翠がせめぎあうその様子が。  そして俺のチカラなら、片方を殺すことが出来る筈だ。 「存じております」  翡翠は静かに答えた。そしてまっすぐ俺を見た。真摯な瞳だ、と思った。 「ですが、お断りします」  ほう、と俺は溜め息をついた。安心していた。翡翠がそう言うと判っていたから。 「やっと判りました。私は…私です。以前の私も、今の私も、私の中の一つなのです。片方が消えてしまえば、それはもう私ではありません」  そうだ。今の翡翠は、昔の翡翠の延長にある。それを全て合わせて、今の翡翠は存在しているのだ。 「変わりたい、と思った心に偽りはありません。姉さんの真似をしていた私が間違っていたとも思いません」  翡翠は続ける。 「でももう、人の真似は止めます」  そうだな、と俺は軽く頷いた。 「私は、もっと私になろうと思います」  そう言って、翡翠は初めて、にっこりと微笑んだ。  ぎこちなく、歪んで見えたが、美しい笑みだと、そう思った。  八年前に笑うことを忘れた少女が、八年目にようやくそれを思い出したのだ。  俺も、笑った。その微笑みを見れたことが嬉しかった。そして、俺の前で笑ってくれたことも。  この笑顔が、もっと自然になるように。  この笑顔を、もっと沢山見れるように。  これから俺は、それを支えたい、と思った。 /END